・・・爾来僕は久しい間、ずっと蛇笏を忘れていた。 その内に僕も作句をはじめた。すると或時歳時記の中に「死病得て爪美しき火桶かな」と云う蛇笏の句を発見した。この句は蛇笏に対する評価を一変する力を具えていた。僕は「ホトトギス」の雑詠に出る蛇笏の名・・・ 芥川竜之介 「飯田蛇笏」
・・・この話を、久しい以前に、何かの本で見た作者は、遺憾ながら、それを、文字通りに記憶していない。そこで、大意を支那のものを翻訳したらしい日本文で書いて、この話の完りに附して置こうと思う。但し、これは、李小二が、何故、仙にして、乞丐をして歩くかと・・・ 芥川竜之介 「仙人」
・・・冷やかな眼ですべてを描いたいわゆる公平無私にいくばくの価値があるかは私の久しい前からの疑問である。単に著者の個人性が明らかに印象せられたというに止まりはしないだろうか。 私は年長の人と語るごとにその人のなつかしい世なれた風に少からず酔わ・・・ 芥川竜之介 「日光小品」
・・・ 中 虎沙魚、衣沙魚、ダボ沙魚も名にあるが、岡沙魚と言うのがあろうか、あっても鳴くかどうか、覚束ない。 けれどもその時、ただ何となくそう思った。 久しい後で、その頃薬研堀にいた友だちと二人で、木場から八幡様へ・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・と穴から渡すように、丼をのせるとともに、その炬燵へ、緋の襦袢むき出しの膝で、のめり込んだのは、絶えて久しい、お妻さん。……「――わかたなは、あんやたい――」若旦那は、ありがたいか、暖かな、あの屋台か、五音が乱れ、もう、よいよい染みて呂律・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・と、さも年久しい昔を見るように、瞳を凝と上へあげる。「内で困って、……今でも貧乏は同一だが。」 と織次は屹と腕を拱んだ。「私が学校で要る教科書が買えなかったので、親仁が思切って、阿母の記念の錦絵を、古本屋に売ったのを、平さんが買・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ 詩の誤解されていることも久しいけれど、また芸術が詩から離れて無感激な状態にいることも既に長い間であると言わなければなりません。そして、其れを救うものは、真に新しく、其の人の出るのを待つにあるばかりです。そしてかゝる芸術家は、眼前の社会・・・ 小川未明 「芸術は生動す」
・・・ 俗悪に対してひどい反感を抱くのは私の久しい間の癖でした。そしてそれは何時も私自身の精神が弛んでいるときの徴候でした。然し私自身みじめな気持になったのはその時が最初でした。梅雨が私を弱くしているのを知りました。 電車に乗っていてもう・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・歩けない者は、看護卒の肩にすがり、又は、担架にのせられて運んで行かれた。久しい間の空気のこもった病室から院庭へ出ると、圧縮された胸がすが/\しく拡がるようだ。病院へつれて来られる時には、うつゝで、苦痛ばかりを意識しながら登ってきた丘に、今、・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・ずいぶん久しい間、聖書をわすれていたような気がして、たいへんうろたえて、旅行中も、ただ聖書ばかりを読んでいました。自分の醜態を意識してつらい時には、聖書の他には、どんな書物も読めなくなりますね。そうして聖書の小さい活字の一つ一つだけが、それ・・・ 太宰治 「風の便り」
出典:青空文庫