・・・窓から顔を出してみると、プラットホームの乗客の間に背丈の高い妻の父の羽織袴の姿が見え、紋付着た妻も、袴をつけた私の二人の娘たちも見えた。四人は前の方の車に乗った。妻の祖母と総領の嫁さんとは私たちの窓の外へ来て悔みを言った。次ぎのK駅では五里・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
・・・が、現在の頼りない気持から、かなり感動を受けた。 ちょうど三月の下旬にはいっていた。が乗客はまだいずれも雪国らしいぎょうさんな風姿をしている。藁沓を履いて、綿ネルの布切で首から頭から包んだり、綿の厚くはいった紺の雪袴を穿いたり――女も―・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・雨後の空気のなかに窓を明け放ち、乗客も程よい電車の内部は、暗い路を通って来た私達の前を、あたかも幸福そのものが運ばれて其処にあるのだと思わせるような光で照されていました。乗っている女の人もただ往来からの一瞥で直ちに美しい人達のように思えまし・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・暗い幌のなかの乗客の眼がみな一様に前方を見詰めている事や、泥除け、それからステップの上へまで溢れた荷物を麻繩が車体へ縛りつけている恰好や――そんな一種の物ものしい特徴で、彼らが今から上り三里下り三里の峠を踰えて半島の南端の港へ十一里の道をゆ・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・そして火夫も運転手も乗客も、みな身を乗り出して薦のかけてある一物を見た。 この一物は姓名も原籍も不明というので、例のとおり仮埋葬の処置を受けた。これが文公の最後であった。 実に人夫が言ったとおり、文公はどうにもこうにもやりきれなくっ・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・ 車中の乗客たちの会話に耳をすました。わからない。異様に強いアクセントである。私は一心に耳を澄ました。少しずつわかって来た。少しわかりかけたら、あとはドライアイスが液体を素通りして、いきなり濛々と蒸発するみたいに見事な速度で理解しはじめ・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・バスの乗客は、ほとんど此の土地の者ばかりであった。皮膚病の人が多かった。漁村には、どうしてだか、皮膚病が多いようである。 きょうは秋晴れである。窓外の風景は、新潟地方と少しも変りは無かった。植物の緑は、淡い。山が低い。樹木は小さく、ひね・・・ 太宰治 「佐渡」
・・・今日はあいにく乗客が多いので、そのまま扉のそばに立ったが、「こみ合いますから前の方へ詰めてください」と車掌の言葉に余儀なくされて、男のすぐ前のところに来て、下げ皮に白い腕を延べた。男は立って代わってやりたいとは思わぬではないが、そうするとそ・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・その層の一番どん底を潜って喘ぎ喘ぎ北進する汽車が横川駅を通過して碓氷峠の第一トンネルにかかるころには、もうこの異常高温層の表面近く浮かみ上がって、乗客はそろそろ海抜五百メートルの空気を皮膚に鼻にまた唇に感じはじめる。そうして頂上の峠の海抜九・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・ 途中で乗客が減ったのでバスから普通の幌自動車に移された。その辺からまた道路が川の水面に近くなる。河の水面のプロフィルが河長に沿うて指数曲線か双曲線のような恰好をしている。その脇に沿うてほぼ同じ勾配の道路をつけるから、自然に途中で道と河・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
出典:青空文庫