・・・並んで立っていた若い会社員風の二人連れが話しているのを、聞くともなく聞いていると、毎朝同じ時刻に乗る人がみんなそれぞれ乗り込む車の位置に自ずからきまりがあると見えて、同じ顔が同じところにいつでも寄り合うようだと云っていた。そうかもしれない。・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・昇降箱が到着して扉が開くと先を争って押し合いへし合いながら乗り込む。そうしてそれが二階へ来ると、もうさっさと出てしまう人が時々ある。出るときにはやはりすしづめの人々を押し分けて出なければならないのである。わずかに一階を上がるだけならば、何も・・・ 寺田寅彦 「蒸発皿」
・・・そこへ折から乗込む女を見るとそれが紛れもない有名な人気女優のMYであった。劇場から差しむけの迎えの自動車であろうか、それとも自用車であろうか、とつまらぬ議論をしたことであった。 そんなことを考えているうちに人形町辺の停留場へ来るとストッ・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・ 船へ帰ると二等へ乗り込むシナ人を見送って、おおぜいの男女が桟橋に来ていた。そしていかにもシナ人らしくなごりを惜しんでいるさまに見えた。中には若い美しい女もいた。そしてハンケチや扇にいろいろの表情を使い分けて見せるのであった。十二時過ぎ・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・するとおおぜいの人々は、降りる人を待つだけの時間さえ惜しむように先を争って乗り込む。あたかも、もうそれかぎりで、あとから来る電車は永久にないかのように争って乗り込むのである。しかしこういう場合にはほとんどきまったように、第二第三の電車が、時・・・ 寺田寅彦 「電車の混雑について」
・・・ようやくにして新橋行のに乗り込む。客車狭くして腰掛のうす汚きも我慢して座を占むれば窓外のもの動き出して新聞売の声後になる。右には未だ青き稲田を距てて白砂青松の中に白堊の高楼蜑の塩屋に交じり、その上に一抹の海青く汽船の往復する見ゆ。左に従い来・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・洋服の男が二人かけ寄って、ともどもに電車に乗り込む。洲崎大門前の終点に来るまで、電車の窓に映るものは電柱につけた電燈ばかりなので、車から降りると、町の燈火のあかるさと蓄音機のさわがしさは驚くばかりである。ふと見れば、枯蘆の中の小家から現れた・・・ 永井荷風 「元八まん」
・・・「明日と定まる仕合の催しに、後れて乗り込む我の、何の誰よと人に知らるるは興なし。新しきを嫌わず、古きを辞せず、人の見知らぬ盾あらば貸し玉え」 老人ははたと手を拍つ。「望める盾を貸し申そう。――長男チアーは去ぬる騎士の闘技に足を痛めて今な・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ 自動車へ乗込むという段になって、悶着が生じた。リージンは前夜六人乗の自動車を註文したのに、髭の濃いコーカサス男の運転して来た車は四人乗ともう一つは二人乗で、計らず四人組、二人組と別れ別れにならなければならなくなったのである。 リー・・・ 宮本百合子 「石油の都バクーへ」
・・・上野行の急行に乗込む時は、人間が夢中になって振り搾る腕力がどんな働をあらわすか、ひとと自分とで経験する好機会であったと云うほかない。 列車は人と貨物を満載し、膏汗を滲ませるむし暑さに包まれながら、篠井位までは、急行らしい快速力で走った。・・・ 宮本百合子 「私の覚え書」
出典:青空文庫