・・・それへ階上階下から人が出て乗り込む。中には友禅の赤い袖がちら附いて、「一しょに乗りたいわよ、こっちへお出よ」と友を誘うお酌の甲走った声がする。しかし客は大抵男ばかりで、女は余り交っていないらしい。皆乗り込んでしまうまで、僕は主人の飾磨屋がど・・・ 森鴎外 「百物語」
・・・農婦は真先に車体の中へ乗り込むと街の方を見続けた。「乗っとくれやア。」と猫背はいった。 五人の乗客は、傾く踏み段に気をつけて農婦の傍へ乗り始めた。 猫背の馭者は、饅頭屋の簀の子の上で、綿のように脹らんでいる饅頭を腹掛けの中へ押し・・・ 横光利一 「蠅」
・・・西日の射す退けどきの渋谷のプラットは、車内から流れ出る客と乗り込む客とで渦巻いていた。その群衆の中に混って、乗るでもない、降りもしない一人の背高い、蒼ざめた帝大の角帽姿の青年が梶の眼にとまった。憂愁を湛えた清らかな眼差は、細く耀きを帯びて空・・・ 横光利一 「微笑」
・・・一か月の後にはツェザアレ・ロッシ一座の立て女優としてチュウリンへ乗り込む。この初陣に当たって偶然にも彼女はサラ・ベルナアルと落ち合ったのである。舞台監督はこの新しき女優を神のごときサラと相並べることの不利を思って一時彼女を陰に置こうとした。・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
出典:青空文庫