・・・「干物! 干物!」 となりの家の中では、バタ/\と周章てゝるらしい。 しめた! 俺はニヤリとした。それは全く天裕だった。――今日は忘れるぞ。 雨戸がせわしく開いて、娘さんが梯子を駈け上がって行く。俺は知らずに息をのんでいた。・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・帰ってすぐその日のひるすぎ、僕は土産の鰈の干物を少しばかり持って青扇を訪れた。このように僕は、ただならぬ親睦を彼に感じ、力こぶをさえいれていたのであった。 庭先からはいって行くと、青扇は、いかにも嬉しげに僕をむかえた。頭髪を短く刈ってし・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・それをお土産だなんて図々しくほらを吹いて、また鰻だって後で私が見たら、薄っぺらで半分乾いているような、まるで鰻の乾物みたいな情無いしろものでした。 その夜は、夜明け近くまで騒いで、奥さまも無理にお酒を飲まされ、しらじらと夜の明けた頃に、・・・ 太宰治 「饗応夫人」
・・・自分のようなものにはこの劇中でいちばんかわいそうなは干物になった心臓の持ち主すなわちにんじんのおかあさんであり、いちばん幸福なのは動物にまでも同情されるにんじんである。そうして一等いい子になってもうけているのは世間の「父」の代表者であるとこ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」
・・・年じゅう同じように貯蔵した馬鈴薯や玉ねぎをかじり、干物塩物や、季節にかまわず豚や牛ばかり食っている西洋人やシナ人、あるいはほとんど年じゅう同じような果実を食っている熱帯の住民と、「はしり」を喜び「しゅん」を貴ぶ日本人とはこうした点でもかなり・・・ 寺田寅彦 「日本人の自然観」
・・・ただ量的にあまりに抽象的な、ややもすれば知識の干物の貯蔵所となる恐れのある学界の一隅に、時々は永遠に若い母なる自然の息を通わせることの必要を今さららしく強調するためにこんな蕪辞を連ねたに過ぎないのである。若くてのんきで自由な頭脳を所有する学・・・ 寺田寅彦 「量的と質的と統計的と」
・・・正月は一年中で日の最も短い寒の中の事で、両国から船に乗り新大橋で上り、六間堀の横町へ来かかる頃には、立迷う夕靄に水辺の町はわけても日の暮れやすく、道端の小家には灯がつき、路地の中からは干物の匂が湧き出で、木橋をわたる人の下駄の音が、場末の町・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・かますの乾物のように、痩せて固まった彼の母は、寝苦しいものと見えて、時々溜息をついていた。 彼は、暑さにジタバタする子供の寝顔を、薄暗い陰気な電燈の光に眺めた。 吉田は大きな溜息をついた。両方の手で拳を固く拵えて、彼の部厚な・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・おれはね、どうもあの馬車別当だの町の乾物屋のおやじだの、あやしいと思っていたんだ。このごろはいつでも酔っているんだ、きっとあいつらがポラーノの広場を知ってるぜ。それにおれは野原でおかしな風に枯草を積んだ荷馬車に何べんもあってるんだ。ファゼー・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・ そして、たった四十だのにもう干物みたいになって終っているナースチャを、ボルティーコフは擲る。引ずりまわす。 一日中寝巻姿でゾロリとしている技師ニェムツェウィッチの女房が、騒動をききつけてドアから鼻をつっこみ、それを鎮めるどころか、・・・ 宮本百合子 「「インガ」」
出典:青空文庫