・・・胸中予めこの算ありけむ、熱の極は冷となりて、ものいいもいと静に、「うむ、きっと節操を守らせるぞ。」 渠は唇頭に嘲笑したりき。 二 相本謙三郎はただ一人清川の書斎に在り。当所もなく室の一方を見詰めたるまま、・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
・・・しかるにお通は予めその趣を心得たれば、老媼が推測りしほどには驚かざりき。 美人は冷然として老媼を諭しぬ、「母上の世に在さば何とこれを裁きたまわむ、まずそれを思い見よ、必ずかかる乞食の妻となれとはいいたまわじ。」と謂われて返さむ言も無けれ・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
・・・毒も皿もそれが予め命ぜられているものならひるむことはいらないことです。一人相撲もこれでおしまいです。あの海に実感を持たねばならぬと思います。 ある日私は年少の友と電車に乗っていました。この四月から私達に一年後れて東京に来た友でした。友は・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・のみは予め知っていたに違いない。 夏の末、秋の初めの九月なかば日曜の午後一時ごろ、「杉の杜」の四辻にぼんやり立っている者がある。 年のころは四十ばかり、胡麻白頭の色の黒い頬のこけた面長な男である。 汗じみて色の変わった縮布の・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・ 三 木代が、六十円ほどはいったが、年末節季の払いをすると、あと僅かしか残らなかった。予め心積りをしていた払いの外に紺屋や、樋直し、按摩賃、市公の日傭賃などが、だいぶいった。病気のせいで彼はよく肩が凝った。で、しょ・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・大いに親しい人ならば、そうしておいでになる日が予めわかっているならば、ちゃんと用意をして、徹宵、くつろいで呑み合うのであるが、そんな親しい人は、私に、ほんの数えるほどしかない。そんな親しい人ならば、どんな貧しい肴でも恥ずかしくないし、家の者・・・ 太宰治 「酒ぎらい」
・・・それを予め知っておらぬと細君も驚く事があるかも知れぬが根が気安過ぎるからの事である故驚く事はない。いったい誰れに対してもあたりの良い人の不平の漏らし所は家庭だなど云う。室の庭に向いた方の鴨居に水彩画が一葉隣室に油画が一枚掛っている。皆不折が・・・ 寺田寅彦 「根岸庵を訪う記」
・・・ 予め期するところは既に斯くの如くであった。これに対して失意の憾みの生ずべき筈はない。コールタを流したような真黒な溝の水に沿い、外囲いの間の小径に進入ると、さすがに若葉の下陰青々として苔の色も鮮かに、漂いくる野薔薇の花の香に虻のむらがり・・・ 永井荷風 「百花園」
・・・新宿の帝都座で、モデルの女を雇い大きな額ぶちの後に立ったり臥たりさせ、予め別の女が西洋名画の筆者と画題とを書いたものを看客に見せた後幕を明けるのだという話であった。しかしわたくしが事実目撃したのは去年になってからであった。 戦争前からわ・・・ 永井荷風 「裸体談義」
・・・これは事実という第一の物が一元的でないという事を予め許すからである。私の家へよく若い者が訪ねて参りますがその学生が帰って手紙を寄こす。その中にあなたの家を訪ねた時に思いきって這入ろうかイヤ這入るまいかと暫く躊躇した、なるべくならお留守であれ・・・ 夏目漱石 「教育と文芸」
出典:青空文庫