・・・多年愛し合った男女が別れて後互いに弱点を暴露して公に争うが如きは醜き限りである。願わくば別離を経験したことによって、前にも書いたようにその感情の質が深くそして濡れてくるような別離をしたいものである。愛する者の別離は胎盤が子宮から離れるように・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・つまり、恋を争う者なんだ。ははは。」 三 松木も丘をよじ登って行く一人だった。 彼は笑ってすませるような競争者がなかった。 彼は、朗らかな、張りのある声で、「いらっしゃい、どうぞ!」と女から呼びかけられたこともな・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・これは中々争うことの出来ない真理さ。しかも物理学上の明晰なる理だよ。イイカネ、例に挙げたものを能く能く考えて貰いたいのサ。ひとつもこの原則に撞着矛盾するものはない。ソコデ何故に物はかく螺線的運動をするのだというのが是非起る大疑問サ。僕がこの・・・ 幸田露伴 「ねじくり博士」
・・・ 否な、人間の死は科学の理論を俟つまでもなく、実に平凡なる事実、時々刻々の眼前の事実、何人も争う可らざる事実ではない歟、死の来るのは一個の例外を許さない、死に面しては貴賎・貧富も善悪・邪正も知愚・賢不肖も平等一如である、何者の知恵も遁が・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・ こういう二人の人は激しく相争うような調子にも成った。「しッ――黙れ」「黙らん」「何故、黙らんか」「何故でも、黙らん――」 同じ人が裂けて、闘おうとした。生命の焔は恐ろしい力で燃え尽きて行くかのような勢を示した。おげ・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・手柄を争う子供に似ていた。 宿の老夫婦は、おどろいた。謂わば、静かにあわてていた。 嘉七は、ひとりさっさと二階にあがって、まえのとしの夏に暮した部屋にはいり、電燈のスイッチをひねった。かず枝の声が聞えて来る。「それがねえ、おばさ・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・豪雨の一夜、郊外の泥道、這うようにして荻窪の郵便局へたどりついて一刻争う電報たのんだところ、いまはすでに時間外、規定の時を七分すぎて居ります。料金倍額いただきましょう。私はたと困惑、濡れ鼠のすがたのまま、思い設けぬこの恥辱のために満身かっか・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・軍艦の比率を争うのも緊要であろうが、科学戦に対する国防がこの状況では心細くはないか。 繰返して云うが、学位などは惜しまず授与すればそれだけでもいくらかは学術奨励のたしになるであろう。学位のねうちは下がるほど国家の慶事である。紙屑のような・・・ 寺田寅彦 「学位について」
・・・一片の麩を争う池の鯉の跳躍への憧憬がラグビー戦の観客を吸い寄せる原動力となるであろう。オリンピック競技では馬やかもしかや魚の妙技に肉薄しようという世界じゅうの人間の努力の成果が展開されているのであろう。 機械的文明の発達は人間のこうした・・・ 寺田寅彦 「からすうりの花と蛾」
・・・僕は斯くの如き貪濁なる商人と事を争う勇気がない。 僕は既に貪濁シャイロックの如き書商に銭を与えた。同時に又、翻訳の露西亜小説カラマゾフ兄弟を愛読するカッフェーの女にも亦銭を恵むことを辞さなかった。彼は資本主義の魔王であって、此れは共産主・・・ 永井荷風 「申訳」
出典:青空文庫