・・・昔は自分の肉体など、感じないほど、五体が自由に動いたものだった。それが、今は、不思議に身体全体が、もの憂く、悩ましく、ちょっと立上るのにさえ、重々しく、厄介に感じられた。 夜があけると、彼は、鍬をかついで、よぼ/\と荒らされた土地を勿体・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・小さい弟の子守りをしながら留守居をしていた祖母は、恥しがる京一をつれて行って、「五体もないし、何んちゃ知らんのじゃせに、えいように頼むぞ。」 と、彼女からは、孫にあたある仁助に頭を下げた。 学校で席を並べていた同年の留吉は、一ヶ・・・ 黒島伝治 「まかないの棒」
・・・「こんなに五体がちぎれちまって見るかげもありゃせん。」「他人事じゃねえぞ! 支柱を惜しがって使わねえからこんなことになっちゃうんだ!」武松は死者を上着で蔽いながら呟いた。「俺れゃ、今日こそは、どうしたって我慢がならねえ! まるでわざと殺・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・ 焔はちろちろ燃えて、少しずつ少しずつ短かくなって行くけれども、私はちっとも眠くならず、またコップ酒の酔いもさめるどころか、五体を熱くして、ずんずん私を大胆にするばかりなのである。 思わず、私は溜息をもらした。「足袋をおぬぎにな・・・ 太宰治 「朝」
・・・私はこの落書めいた一ひらの文反故により、かれの、死ぬるきわまで一定職に就こう、就こうと五体に汗してあせっていたという動かせぬ、儼たる証拠に触れてしまったからである。二、三の評論家に嘘の神様、道化の達人と、あるいはまともの尊敬を以て、あるいは・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・それはもう私にとりましてもほとんど残酷と言っていいくらいのもので、先日この教育会の代表のお方が、私のところに見えられまして、何か文化に就いての意見を述べよとおっしゃるのを、承っているうちに、私の老いの五体はわなわなと震え、いや、本当の事でご・・・ 太宰治 「男女同権」
・・・またいう、「彼の作品は常に作後の喝采を目標として、病弱の五体に鞭うつ彼の虚栄心の結晶であった。」そうであろう。堂々と自分のつらを、こんなにあやしいほど美しく書き装うてしかもおそらくは、ひとりの貴婦人へ頗る高価に売りつけたにちがいない二十三歳・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・換言すれば、蠅はわれわれの五体をワクチン製造所として奉職する技師技手の亜類であるかもしれないのである。 これはもちろん空想である。しかしもし蠅を絶滅するというのなら、その前に自分のこの空想の誤謬を実証的に確かめた上にしてもらいたいと思う・・・ 寺田寅彦 「蛆の効用」
・・・高速度活動写真でとった、いわゆるスローモーションの競走映画で見ると同じような型式の五体の運動を、任意の緩速度で実行できるかというと、これは地球の重力gの価を減らさなければむつかしそうに思われる。できるだけのろく「歩く」競技も審査困難と思われ・・・ 寺田寅彦 「記録狂時代」
・・・人間のこしらえたものはとかく欠点だらけであるが、天然のものは何を見ても実に巧妙にできている。人間の五体でもけがをするとそこが痛む。動くとひどく痛むからしかたなくじっとしている。じっとしていれば直るものはひとりで直るようにできているものらしい・・・ 寺田寅彦 「鎖骨」
出典:青空文庫