・・・あたりは甲板士官の靴の音のほかに人声も何も聞えなかった。K中尉は幾分か気安さを感じ、やっときょうの海戦中の心もちなどを思い出していた。「もう一度わたくしはお願い致します。善行賞はお取り上げになっても仕かたはありません。」 下士は俄に・・・ 芥川竜之介 「三つの窓」
・・・を根気よくあさりまわって、欧洲戦争が始まってから、めっきり少くなった独逸書を一二冊手に入れた揚句、動くともなく動いている晩秋の冷い空気を、外套の襟に防ぎながら、ふと中西屋の前を通りかかると、なぜか賑な人声と、暖い飲料とが急に恋しくなったので・・・ 芥川竜之介 「毛利先生」
・・・トンミイ、フレンチ君が、糊の附いた襟が指に障るので顫えながら、嵌まりにくいシャツの扣鈕を嵌めていると、あっちの方から、鈍い心配気な人声と、ちゃらちゃらという食器の触れ合う音とが聞える。「あなた、珈琲が出来ました。もう五時です。」こう云う・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・この汐に、そこら中の人声を浚えて退いて、果は遥な戸外二階の突外れの角あたりと覚しかった、三味線の音がハタと留んだ。 聞澄して、里見夫人、裳を前へ捌こうとすると、うっかりした褄がかかって、引留められたようによろめいたが、衣裄に手をかけ、四・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・……幽に人声――女らしいのも、ほほほ、と聞こえると、緋桃がぱッと色に乱れて、夕暮の桜もはらはらと散りかかる。…… 直接に、そぞろにそこへ行き、小路へ入ると、寂しがって、気味を悪がって、誰も通らぬ、更に人影はないのであった。 気勢・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・ 市のあたりの人声、この時賑かに、古椎の梢の、ざわざわと鳴る風の腥蕈さ。 ――病院は、ことさらに、お藻代の時とちがった、他のを選んだ。 生命に仔細はない。 男だ。容色なんぞは何でもあるまい。 ただお町の繰り言に聞いても、・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・見附正面の総湯の門には、浅葱に、紺に、茶の旗が、納手拭のように立って、湯の中は祭礼かと思う人声の、女まじりの賑かさ。――だぶだぶと湯の動く音。軒前には、駄菓子店、甘酒の店、飴の湯、水菓子の夜店が並んで、客も集れば、湯女も掛ける。髯が啜る甘酒・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・ 何か人声が遠くに聞えるよと耳を立てて聞くと、助け舟は無いかア……助け舟は無いかア……と叫ぶのである。それも三回ばかりで声は止んだ。水量が盛んで人間の騒ぎも壓せられてるものか、割合に世間は静かだ。まだ宵の口と思うのに、水の音と牛の鳴く声・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・ 悲壮な気持ちで、門を入ろうとすると、内部からがやがや人声がきこえました。 一足前、近所の人たちが、倒れている老人を連れてきたのです。 B医師は、すぐに老人に注射を打ちました。「気がついた。おじいさん泣かんでいい。ここは医者・・・ 小川未明 「三月の空の下」
・・・ どうもおれには……おお、矢張人声だ。蹄の音に話声。危なく声を立てようとして、待てしばし、万一敵だったら、其の時は如何する? この苦しみに輪を掛けた新聞で読んでさえ頭の髪の弥竪そうな目に遭おうも知ぬ。随分生皮も剥れよう、傷を負うた脚を火炙に・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
出典:青空文庫