・・・闇に消える棺桶をしばらくは物珍らし気に見送って振り返った時、また行手から人声が聞え出した。高い声でもない、低い声でもない、夜が更けているので存外反響が烈しい。「昨日生れて今日死ぬ奴もあるし」と一人が云うと「寿命だよ、全く寿命だから仕方が・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・自分はなるべく重吉といっしょに晩飯を食おうと思って、煙草を何本も吹かしながら、彼の来るのを心待ちに待っているうちに、向こうの中二階に電気燈がついて、にぎやかな人声が聞こえだした。自分はとうとう待ち切れず一人膳に向かった。給仕に出た女が、招魂・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・往来の人声もしない。すこぶる寂寥たるものだ。主人夫婦は事件の落着するまでは毎晩旧宅へ帰って寝なければならぬ。新宅には三階に寝る妹とカーロー君とジャック君とアーネスト君である。カーロー君とジャック君は犬の名であってアーネスト君はここの主人の店・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・しばらくして、その森閑とした大気のどこかしらから人声がきこえて来た。かすかだった人声は次第にたかまり、やがて早足に歩く跫音がおこり、やがてかたまって駈けまわるとどろきになって来た。君たちは、話すことができる! 君たちは話すことができる! そ・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第七巻)」
・・・ 眺めていると、きよらかな海際の社頭の松風のあいだに、どこやら微かに人声も聴えて来るという思いがする。物蔭の小高いところから、そちらを見下すと、そこには隈なく陽が照るなかに、優美な装束の人たちが、恭々しいうちにも賑やかでうちとけた供まわ・・・ 宮本百合子 「あられ笹」
・・・ 涙をためて机の下に丸まって居ると、戸口の方に人声がし、一人の婦人が入って来た。まるで入口一杯になる程、縦にも横にも大きい人である。大変快活な顔付で、いかつい眼や口のまわりに微笑さえ浮べて居る。「あの娘は見つかりましたよ」と云う・・・ 宮本百合子 「或日」
・・・ 館のあるお花畠からは、山崎はすぐ向うになっているので、光尚が館を出るとき、阿部の屋敷の方角に人声物音がするのが聞こえた。「今討ち入ったな」と言って、光尚は駕籠に乗った。 駕籠がようよう一町ばかりいったとき、注進があった。竹内数・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・ 僕はどうしようかと思って、暫く立ち竦んでいたが、右の方の唐紙が明いている、その先きに人声がするので、その方へ行って見た。そこは十四畳ばかりの座敷で、南側は古風に刈り込んだ松の木があったり、雪見燈籠があったり、泉水があったりする庭を見晴・・・ 森鴎外 「百物語」
・・・で、彼は軒で薪を割りながら暇々に家の中の人声に気をつけた。 よく肥えた秋三の母のお留は古着物を背負って、村々を廻って帰って来た。「今日は馬が狸橋から落ちよってさ。」 彼女は人の見えない内庭へ這入って大声でそう云うと、荷を縁に下ろ・・・ 横光利一 「南北」
・・・うんざりしながら鄙びた小さな停車場をながめていると、突然陽気な人声が聞こえて四、五人の男女が電車へ飛び込んで来た。よほど馳けて来たらしく息を切らしている人もある。ふと見るとその一人が寺田先生であった。 自分にはこの時一種の驚きが感じられ・・・ 和辻哲郎 「寺田さんに最後に逢った時」
出典:青空文庫