・・・しかし肝腎の部屋の中は、まだ香炉に蒼白い火がめらめら燃えているばかり、人気のないようにしんとしています。 遠藤はその光を便りに、怯ず怯ずあたりを見廻しました。 するとすぐに眼にはいったのは、やはりじっと椅子にかけた、死人のような妙子・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・ 僕等はMのこう言った時、いつのまにかもう風の落ちた、人気のない渚を歩いていた。あたりは広い砂の上にまだ千鳥の足跡さえかすかに見えるほど明るかった。しかし海だけは見渡す限り、はるかに弧を描いた浪打ち際に一すじの水沫を残したまま、一面に黒・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・暗らくなった谷を距てて少し此方よりも高い位の平地に、忘れたように間をおいてともされた市街地のかすかな灯影は、人気のない所よりもかえって自然を淋しく見せた。彼れはその灯を見るともう一種のおびえを覚えた。人の気配をかぎつけると彼れは何んとか身づ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
一 婦人は、座の傍に人気のまるでない時、ひとりでは按摩を取らないが可いと、昔気質の誰でもそう云う。上はそうまでもない。あの下の事を言うのである。閨では別段に注意を要するだろう。以前は影絵、うつし絵などで・・・ 泉鏡花 「怨霊借用」
・・・ 今境内は人気勢もせぬ時、その井戸の片隅、分けても暗い中に、あたかも水から引上げられた体に、しょんぼり立った影法師が、本堂の正面に二三本燃え残った蝋燭の、横曇りした、七星の数の切れたように、たよりない明に幽に映った。 びしゃびしゃ…・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・て伝法院の庭続きの茶畑を拓き、西洋型の船に擬えた大きな小屋を建て、舷側の明り窓から西洋の景色や戦争の油画を覗かせるという趣向の見世物を拵え、那破烈翁や羅馬法王の油画肖像を看板として西洋覗眼鏡という名で人気を煽った。何しろ明治二、三年頃、江漢・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・その第一回は美妙の裸蝴蝶で大分前受けがしたが、第二回の『於母影』は珠玉を満盛した和歌漢詩新体韻文の聚宝盆で、口先きの変った、丁度果実の盛籠を見るような色彩美と清新味で人気を沸騰さした。S・S・Sとは如何なる人だろう、と、未知の署名者の謎がい・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・ところが、世間というものはおかしなもので、そんな風に二度まで新聞に書かれたためか、私はたちまち町の人気者みたいになってしまった。何しろ世を挙げて宣伝の時代、ある大きな酒場では私をボーイに雇いたいと言ってきました。うっかり応じたら、私はまた新・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・人生の退屈さを感じて、劇場へ行ったり小説を読んだり放送を聴いたりすることに恐怖を感じ、こんな紋切型に喜んでいるのが私たちの人生であるならば、随分と生きて甲斐なき人生であると思うのだが、そしてまた、相当人気のある劇作家や連続放送劇のベテラン作・・・ 織田作之助 「大阪の可能性」
・・・そしてどこの門の中も、人気が無いかのようにひっそり閑としていて、敷きつめた小砂利の上に、太陽がチカ/\光っていた。で「斯んな広いお邸宅の静かな室で、午睡でもしていたいものだ」と彼はだら/\流れ出る胸の汗を拭き/\、斯んなことを思いながら、息・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
出典:青空文庫