・・・求馬はその頃から人知れず、吉原の廓に通い出した。相方は和泉屋の楓と云う、所謂散茶女郎の一人であった。が、彼女は勤めを離れて、心から求馬のために尽した。彼も楓のもとへ通っている内だけ、わずかに落莫とした心もちから、自由になる事が出来たのであっ・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・空海、道風、佐理、行成――私は彼等のいる所に、いつも人知れず行っていました。彼等が手本にしていたのは、皆支那人の墨蹟です。しかし彼等の筆先からは、次第に新しい美が生れました。彼等の文字はいつのまにか、王羲之でもなければ 遂良でもない、日本人・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・クララは人知れずこの乞食僧の挙動を注意していた。その頃にモントルソリ家との婚談も持上って、クララは度々自分の窓の下で夜おそく歌われる夜曲を聞くようになった。それはクララの心を躍らしときめかした。同時にクララは何物よりもこの不思議な力を恐れた・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・彫刻師はその夜の中に、人知れず、暗ながら、心の光に縁側を忍んで、裏の垣根を越して、庭を出るその後姿を、立花がやがて物語った現の境の幻の道を行くがごとくに感じて、夫人は粛然として見送りながら、遥に美術家の前程を祝した、誰も知らない。 ただ・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・まあ、独言を云って、誰かと話をしているようだよ…… (四辺そうそう、思った同士、人前で内証で心を通わす時は、一ツに向った卓子が、人知れず、脚を上げたり下げたりする、幽な、しかし脈を打って、血の通う、その符牒で、黙っていて、暗号が出来ると・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・ さりながら鏡を示されし時乞食僧は逃げ去りつつ人知れず左記の数言を呟きたり。「予は自ら誓えり、世を終るまで鏡を見じと、然り断じて鏡を見まじ。否これを見ざるのみならず、今思出したる鏡という品の名さえ、務めて忘れねばならぬなり。」・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
・・・そして、その刹那から人知れず孜々として、更生の準備にとりかゝりつゝあるのを見よ。 人生は、また希望である。 小川未明 「名もなき草」
・・・この事実は人知れず天が下にて行なわれし厳かなる事実なり。 いかなる言葉もてもこれを言い消すことあたわず、大空の星の隕ちたるがごとし、二郎はその理由のいかんを見ず、ただ光の失せぬるを悲しむ。げにこの悲しみや深し。 友の交わりを続けてよ・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・そして何とも言えない嬉しさがこみ上げて来て人知れずハンケチで涙を拭いたよ真実に!」「一寸と君、一寸と『馬鹿野郎!』というような心持というのが僕には了解が出来ないが……そのどういうんだね?」と権利義務の綿貫が真面目で訊ねた。「唯だ東京・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・ 一先拝借して自分の急場を救った上で、その中に母から取返すとも、自分で工夫して金を作るとも、何とでもして取った百円を再び革包に入れ、そのまま人知れず先方に届ける。 天の賜とは実にこの事と、無上によろこび、それから二百円を入れたままの革包・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
出典:青空文庫