・・・ 翌日も、翌日も……行ってその三度の時、寺の垣を、例の人里へ出ると斉しく、桃の枝を黒髪に、花菜を褄にして立った、世にも美しい娘を見た。 十六七の、瓜実顔の色の白いのが、おさげとかいう、うしろへさげ髪にした濃い艶のある房りした、その黒・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ 人里を出離れつ。北の方角に進むことおよそ二町ばかりにて、山尽きて、谷となる。ここ嶮峻なる絶壁にて、勾配の急なることあたかも一帯の壁に似たり、松杉を以て点綴せる山間の谷なれば、緑樹長に陰をなして、草木が漆黒の色を呈するより、黒壁とは名附・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
・・・ 人里を離れてキィーキィーの櫓声がひときわ耳にたつ。舟津の森もぼうっと霧につつまれてしまった。忠実な老爺は予の身ぶりに注意しているとみえ、予が口を動かすと、すぐに推測をたくましくして案内をいうのである。おかしくもあるがすこぶる可憐に思わ・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・にぎやかな町へ出るには、かなり隔たっていましたから、木の多い、人里から遠ざかったお城の中はいっそうさびしかったのであります。 お城の中には、どんなきれいな御殿があって、どんな美しい人々が住んでいるか、だれも知ったものがなかったのです。旅・・・ 小川未明 「お姫さまと乞食の女」
・・・私は腑甲斐ない一人の私を、人里離れた山中へ遺棄してしまったことに、気味のいい嘲笑を感じていた。 樫鳥が何度も身近から飛び出して私を愕ろかした。道は小暗い谿襞を廻って、どこまで行っても展望がひらけなかった。このままで日が暮れてしまってはと・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・ 十五、六人の人数と十頭の犬で広い野山谷々を駆けまわる鹿を打つとはすこぶるむずかしい事のようであるが、元が崎であるから山も谷も海にかぎられていて鹿とてもさまで自由自在に逃げまわることはできない、また人里の方へは、すっかり、高い壁が石で築い・・・ 国木田独歩 「鹿狩り」
・・・ところは寂びたり、人里は遠し、雨の小止をまたんよすがもなければ、しとど降る中をひた走りに走らす。ようやく寺尾というところにいたりたる時、路のほとりに一つ家の見えければ、車ひく男駆け入りて、おのれらもいこい、我らをもいこわしむ。男らの面を見れ・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・ 自分たちの少年時代にはもう文明の光にけおされてこのシバテンどもは人里から姿を隠してしまっていたが、しかし小学校生徒の仲間にはどこかこのシバテンの風格を備えた自然児の悪太郎はたくさんにいて、校庭や道ばたの草原などでよく相撲をとっていた。・・・ 寺田寅彦 「相撲」
・・・ついて居る道さえ見失わなければいつかは人里に行けます。 或時は、花が一杯咲いて気の遠くなる様なよい匂いのする原っぱを歩きよろこんで居るうちに、道がいつの間にか嶮しい山路になって私は牡鹿の様なすばやさで谷から谷へ渡らなければなりませんでし・・・ 宮本百合子 「旅人(一幕)」
・・・背筋のひきしまるような気もちで、人気のない長廊下を来て柵のところの机に、電燈の光を肩から浴びた受付の人の姿を見るとき、人里に近づいた暖かみと安心とを覚え、階段にかかっている円形時計の面を見上げるのであった。その円形時計は、針が止ったまま、恰・・・ 宮本百合子 「図書館」
出典:青空文庫