・・・が、棟梁、お前さんの靴は仁王様の草鞋も同じなんだから」と頭を下げて頼んだと言うことです。けれども勿論半之丞は元値にも買うことは、出来なかったのでしょう。この町の人々には誰に聞いて見ても、半之丞の靴をはいているのは一度も見かけなかったと言って・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・ ――さて、毛越寺では、運慶の作と称うる仁王尊をはじめ、数ある国宝を巡覧せしめる。「御参詣の方にな、お触らせ申しはいたさんのじゃが、御信心かに見受けまするで、差支えませぬ。手に取って御覧なさい、さ、さ。」 と腰袴で、細いしない竹・・・ 泉鏡花 「七宝の柱」
・・・――有験の高僧貴僧百人、神泉苑の池にて、仁王経を講じ奉らば、八大竜王も慈現納受たれ給うべし、と申しければ、百人の高僧貴僧を請じ、仁王経を講ぜられしかども、その験もなかりけり。また或人申しけるは、容顔美麗なる白拍子を、百人めして、――・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ 俗に赤門寺と云う。……門も朱塗だし、金剛神を安置した右左の像が丹であるから、いずれにも通じて呼ぶのであろう。住職も智識の聞えがあって、寺は名高い。 仁王門の柱に、大草鞋が――中には立った大人の胸ぐらいなのがある――重って、稲束の木・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・マダムはすぐ酔っ払ったが、私も浅ましいゲップを出して、洋酒棚の下の方へはめた鏡に写った顔は仁王のようであった。マダムはそんな私の顔をにやっと見ていたが、何思ったのか。「待っててや。逃げたらあかんし」と蓮葉に言って、赤い斑点の出来た私の手・・・ 織田作之助 「世相」
・・・と喚き、さながら仁王の如く、不動の如く、眼を固くつむってううむと唸って、両腕を膝につっぱり、満身の力を発揮して、酔いと闘っている様子である。 酔う筈である。ほとんど彼ひとりで、すでに新しい角瓶の半分以上もやっているのだ。額には油汗がぎら・・・ 太宰治 「親友交歓」
・・・ 三 運慶が木材の中にある仁王を掘り出したと云われるならば、ブローリーやシュレディンガーは世界中の物理学者の頭の中から波動力学を掘り出したということも出来るであろう。「言葉」は始めから在る。それを掘り出すだけ・・・ 寺田寅彦 「スパーク」
・・・近きベンチへ腰をかけて観音様を祈り奉る俄信心を起すも霊験のある筈なしと顔をしかめながら雷門を出づれば仁王の顔いつもよりは苦し。仲見世の雑鬧は云わずもあるべし。東橋に出づ。腹痛やゝ治まる。向うへ越して交番に百花園への道を尋ね、向島堤上の砂利を・・・ 寺田寅彦 「半日ある記」
・・・「まるで仁王のようだね。仁王の行水だ。そんな猛烈な顔がよくできるね。こりゃ不思議だ。そう眼をぐりぐりさせなくっても、背中は洗えそうなものだがね」 圭さんは何にも云わずに一生懸命にぐいぐい擦る。擦っては時々、手拭を温泉に漬けて、充分水・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・運慶の仁王は意志の発動をあらわしている。しかしその体格は解剖には叶っておらんだろうと思います。あれを評して真を欠いてるから駄目だと云うのは、云う方が駄目です。ミレーの晩祈の図は一種の幽遠な情をあらわしている。そこに目がつけば、それでたくさん・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
出典:青空文庫