・・・ おれはすっかり気色を悪くして、もう今晩は駄目だと思った。もうなんにもすまいと思って、ただ町をぶらついていた。手には例の癪に障る包みを提げている。二三度そっと落してみた。すぐに誰かが拾って、にこにこした顔をしておれに渡してくれる。おれは・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・別れ際に「ぜひ紹介したい人があるから今晩宅へ来てくれ」と云って独りで勝手に約束をきめてしまった。 約束の時刻に尋ねて行った。入口で古風な呼鈴の紐を引くと、ひとりで戸があいた。狭い階段をいくつも上っていちばん高い所にB君の質素な家庭があっ・・・ 寺田寅彦 「異郷」
・・・とわたしは唖々子をその場に待たせて、まず冠っていた鳥打帽を懐中にかくし、いかにも狼狽した風で、煙草屋の店先へ駈付けるが否や、「今晩は。急に御願いがあるんですが。」 帽子をかくしたのは友達がわたしの家へ馬をつれて来たので、わたしは家人・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
・・・給仕に出た女が、招魂祭でどこの宿屋でもこみ合っているとか、町ではいろいろの催しがあるとか、佐野さんも今晩はきっとどこかへお呼ばれなすったんでしょうとか言うのを聞きながら、ビールを一、二はいのんだ。下女は重吉のことをおとなしいよいかただと言っ・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・「だッて、あんまりうるさいんだもの」「今晩もかい。よく来るじゃアないか」と、小万は小声で言ッて眉を皺せた。「察しておくれよ」と、吉里は戦慄しながら火鉢の前に蹲踞んだ。 張り替えたばかりではあるが、朦朧たる行燈の火光で、二女は・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・主人は今晩帰るはずになっています。わたくしはもう夫に怨を申すことは出来ません。それは自分がほとんど同じような不実をいたしたからでございます。 わたくしはこれまでのような、単調な生活を続けてまいりましょう。田舎の女にはそれが当り前なのでご・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・「野鼠さん、野鼠さん。もうし、もうし。」と呼びました。「ツン。」と野鼠は返事をして、ひょこりと蛙の前に出て来ました。そのうすぐろい顔も、もう見えないくらい暗いのです。「野鼠さん。今晩は。一つお前さんに頼みがあるんだが、きいて呉れ・・・ 宮沢賢治 「蛙のゴム靴」
・・・彼等も今晩は少しいつもと異った心持らしく低声で話し、間に箸の音が聞えた。 陽子はコーンビーフの罐を切りかけた、罐がかたく容易に開かない、木箱の上にのせたり畳の上に下したり、力を入れ己れの食いものの為に骨を折っているうちに陽子は悲しく自分・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・親しい間柄と云いながら、今晩わざわざ請待した客の手前がある。どうぞこの席はこれでお立下されい」と云った。 下島は面色が変った。「そうか。返れと云うなら返る。」こう言い放って立ちしなに、下島は自分の前に据えてあった膳を蹴返した。「これ・・・ 森鴎外 「じいさんばあさん」
・・・「いらっしゃいませ。今晩はまア、大へんな降りでこざいまして。さア、どうぞ。」 灸の母は玄関の時計の下へ膝をついて婦人にいった。「まアお嬢様のお可愛らしゅうていらっしゃいますこと。」 女の子は眠むそうな顔をして灸の方を眺めてい・・・ 横光利一 「赤い着物」
出典:青空文庫