・・・大抵の場合不確な考えの翻訳と云う順序を踏まなければならず、為に、私共は、よく間違って仕舞います。 けれども、スバーの黒い眼には、何の翻訳もいりませんでした。心そのものが影をなげました。眼の裡に、思いは開き閉じ、耀き出すかと思えば、闇の中・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・金の仕舞いどころを忘れたつもりなのである。いよいよおしまいにかのズボンのポケットに気がつくのであった。私はポケットの中の右手をしばらくもじもじさせる。五六枚の紙幣をえらんでいるかたちである。ようやく、私はいちまいの紙幣をポケットから抜きとり・・・ 太宰治 「逆行」
・・・、かれの歿したる直後に、この数行の文章に接し、はっと凝視し、再読、三読、さらに持ち直して見つめたのだが、どうにも眼が曇って、ついには、歔欷の波うねり、一字をも読む能わず、四つに折り畳んで、ふところへ、仕舞い込んだものであるが、内心、塩でもま・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・この五葉の切りぬきを、貴方は、こっそり赤い文箱に仕舞い込みました。どうです。いやいや、無理して破ってはいけません。私を知っていますか? 知る筈は、ない。私は二十九歳の医者です。ネオ・ボンタージンの発明者、しかも永遠の文学青年、白石国太郎先生・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・この五葉の切りぬきを、貴方は、こっそり赤い文箱に仕舞い込みました。どうです。いやいや、無理して破ってはいけません。私を知っていますか? 知る筈は、ない。私は二十九歳の医者です。ネオ・ボンタージンの発明者、しかも永遠の文学青年、白石国太郎先生・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・それで、これは夏目先生に関する一つの資料として保存しておけば他日きっと役に立つ機会があるであろうと思ったので、当時の大学理学部物理教室の自室の書卓の抽斗しの中に他の大事な手紙と一緒に仕舞い込んでおいた。 ところが、その後間もなく自分は胃・・・ 寺田寅彦 「埋もれた漱石伝記資料」
・・・その後この疑問を遙々日本へ持って帰って仕舞い込んで忘れていた。専売局の方々にでも聞いてみたら分るかもしれないが、事によると、これは自分がちょっとかつがれたのかもしれない。 ドイツは葉巻が安くて煙草好きには楽土であった。二、三十片で相当な・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・たしか謡曲や仕舞も上手であったかと思う。若先生も典型的な温雅の紳士で、いつも優長な黒紋付姿を抱車の上に横たえていた。うちの女中などの尊敬の対象であったようである。その若先生が折々自分の我儘な願いに応じて「化学的手品」の薬品を調合してくれたり・・・ 寺田寅彦 「追憶の医師達」
・・・その後ほとんどこの本を読み返したような記憶がなく、昔読んだ本もとうの昔に郷里の家のどこかに仕舞い込まれたきり見たことがない。それだのに今度新たに岩波文庫で読み返してみると、実に新鮮な記憶が残っていた。昔の先生の講義の口振り顔付きまでも思い出・・・ 寺田寅彦 「徒然草の鑑賞」
・・・と、そこへ差出すと、爺さんは一度辞退してから、戴いて腹掛へ仕舞いこんだ。「お爺さんはいつも元気すね。」「なに、もう駄目でさ。今日もこの歯が一本ぐらぐらになってね、棕櫚縄を咬えるもんだから、稼業だから為方がないようなもんだけれど……。・・・ 徳田秋声 「躯」
出典:青空文庫