・・・それで金はなくてもかまわないから、どうしても道楽をしない保険付きの堅い人にもらってもらおうと、夫婦の間に相談がまとまったのである。 自分の妻は先方から聞いてきたとおりをこういうふうに詳しくくりかえして自分に話したのち、重吉さんならまちが・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・親父が額に汗を出した記念だとかあるいは婆さんの臍繰だとか中には因縁付きの悪い金もありましょうけれども、とにかく何らか人のためにした符徴、人のためにしてやったその報酬というものが、つまり自分の金になって、そうして自分はそのお蔭でもって懐手をし・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・彼の画面に対して、あんなにも透視的の奥行きをあたへたり、適度の明暗を反映させたり、よつて以てそれを空間から切りぬき、一つの落付きある完成の気分をそへる額縁に対して、どんな画家も無関心でゐることができないだらう。同じやうに我等の書物に於ける装・・・ 萩原朔太郎 「装幀の意義」
・・・ 女子は我家に養育せらるゝ間こそ父母に孝行を尽す可きなれども、他家に縁付きては我実の父母よりも夫の父母たる舅姑の方を親愛し尊敬して専ら孝行す可し、仮初にも実父母を重んじて舅姑を軽んずる勿れ、一切万事舅姑の言うがまゝに従う可しと言・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・ただ解決が出来れば幾分か諦が付き易い効はあるが、元来「死」が可厭という理由があるんじゃ無いから――ただ可厭だから可厭なんだ――意味が解った所で、矢張り何時迄も可厭なんだ。すると智識で「死」の恐怖を去る事は出来ん。死を怖れるのも怖れぬのも共に・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・白き細き指にレエスの付きたる白き絹の紛※を持ちおる。母は静に扉を開きて出で、静に一間の中母。この部屋の空気を呼吸すれば、まあ、どれだけの甘い苦痛を覚える事やら。わたしがこの世に生きていた間の生活の半分はラヴェンデルの草の優しい匂のよ・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・四、ケンタウル祭の夜 ジョバンニは、口笛を吹いているようなさびしい口付きで、檜のまっ黒にならんだ町の坂を下りて来たのでした。 坂の下に大きな一つの街燈が、青白く立派に光って立っていました。ジョバンニが、どんどん電燈の方へ・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・それが破綻であるか、或いは互いに一層深まり落付き信じ合った愛の団欒か、互いの性格と運とによりましょが、いずれにせよ、行きつくところまで行きついてそこに新たな境地を開かせる本質が恋愛につきものなのです。 自然は、人間の恋愛を唯だ男性と・・・ 宮本百合子 「愛は神秘な修道場」
・・・藤子が食い付きそうだと云ったのは、この青年の顔であった。 色の蒼白い、面長な男である。下顎を後下方へ引っ張っているように、口を開いているので、その長い顔が殆ど二倍の長さに引き延ばされている。絶えず涎が垂れるので、畳んだ手拭で腮を拭いてい・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・栖方は酒を注ぐ手伝いの知人の娘に軽い冗談を云ったとき、親しい応酬をしながらも、娘は二十一歳の博士の栖方の前では顔を赧らめ、立居に落ち付きを無くしていた。いつも両腕を組んだ主宰者の技師は、静かな額に徳望のある気品を湛えていて、ひとり和やかに沈・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫