・・・交通の不便な昔は、山の中に仙人がいると思っておったくらいだから、江戸には漱石といって仙人ではないが、まあ仙人に近い人間がいるそうだぐらいの評判で持ち切って下されば私もはなはだ満足の至りであったろうが、今日汽車電話の世の中ではすでに仙人そのも・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
・・・気高いということは富士山や御釈迦様や仙人などを描いて、それで気高いという訳じゃない。仮令馬を描いても気高い。猫をかいたら――なお気高い。草木禽獣、どんな小さな物を描いても、どんなインシグニフィカントな物を描いても、気高いものはいくらもありま・・・ 夏目漱石 「模倣と独立」
・・・ 僕の天性の我がまま気儘も、これに輪をかけて自分を洞窟の仙人にした。人と人との交際ということは、所詮相互の自己抑制と、利害の妥協関係の上に成立する。ところで僕のような我がまま者には、自己を抑制することが出来ない上に、利害交換の妥協という・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・きほどにますます人間世界の事を忘却して、ひそかにこれを軽蔑するがゆえに、浮世の人もまた学者とともに語るを厭い、工業にも商売にもこれとともに事をともにせんとするものとては一人もなく、ただ学者と聞けば例の仙人なりと認めて、ただ外面にこれを尊敬す・・・ 福沢諭吉 「慶応義塾学生諸氏に告ぐ」
・・・なお正直にも彼は銭を多く貰いし時の思いがけなきうれしさをも白状せり。仙人のごとき仏のごとき子供のごとき神のごとき曙覧は余は理想界においてこれを見る、現実界の人間としてほとんど承認するあたわず。彼の心や無垢清浄、彼の歌や玲瓏透徹。 貧、か・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・東の仙人峠から、遠野を通り土沢を過ぎ、北上山地を横截って来る冷たい猿ヶ石川の、北上川への落合から、少し下流の西岸でした。 イギリス海岸には、青白い凝灰質の泥岩が、川に沿ってずいぶん広く露出し、その南のはじに立ちますと、北のはずれに居る人・・・ 宮沢賢治 「イギリス海岸」
・・・ 下草はみじかくて奇麗でまるで仙人たちが碁でもうつ処のように見えました。 ところが次の日虔十は納屋で虫喰い大豆を拾っていましたら林の方でそれはそれは大さわぎが聞えました。 あっちでもこっちでも号令をかける声ラッパのまね、足ぶみの・・・ 宮沢賢治 「虔十公園林」
・・・お伽話というものは、例えば巖谷小波がこの正月にラジオで放送したああいう山羊の仙人というような話は、子供の話としてソヴェトにはないわけである。何故ないかというと、そういう風な全然子供自身が大人から聞かなければ知らないような、そういう幻想、それ・・・ 宮本百合子 「ソヴェト・ロシアの素顔」
・・・君だの、あの騾馬を手に入れて喜んだ司令官の爺いさんなんぞは、仙人だと思ったよ。己は騎兵科で、こんな服を着て徒歩をするのはつらかったが、これがあれば、もうてくてく歩きはしなくっても好いと云って、ころころしていた司令官も、随分好人物だったね。あ・・・ 森鴎外 「鼠坂」
・・・隠者仙人は人生と没交渉なると同時に社会の人として価値がない。一己の心霊の満足は目的でない。霊水に凡俗を浴せしめ凡界を洗うの信念が無ければ仙人は鶴と類を同じゅうせる生物に過ぎない。 真と義と愛と荘とに対する絶対の執着即神の憧憬と悪の憎悪は・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫