・・・ 五 人は何とも言わば言え…… で渠に取っては、花のその一里が、所謂、雲井桜の仙境であった。たとえば大空なる紅の霞に乗って、あまつさえその美しいぬしを視たのであるから。 町を行くにも、気の怯けるまで、郷里・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・それですから、弁天島の端なり、その……淡島の峯から、こうこの巌山を視めますと、本で見ました、仙境、魔界といった工合で……どんなか、拍子で、この崖に袖の長い女でも居ようものなら、竜宮から買ものに顕われたかと思ったもので。――前途の獅子浜、江の・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
・・・ちたるその真下に、馬頭尊の御堂の古びたるがいと小やかに物さびて見えたるさま、画としても人の肯うまじきまで珍らかにめでたければ、言語を以ては如何にしてか見ぬものをして点頭かしむることを得ん、まことにただ仙境の如しといわんのみ。巌といえば日光の・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・先日私は、素直な書生にさそわれまして井の頭公園の梅見としゃれたのでありますが、紅梅、白梅、ほつほつと咲きほころびつつましく艶を競い、まことに物静かな、仙境とはかくの如きかと、あなた、こなた、夢に夢みるような思いにてさまよい歩き、ほとんど俗世・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・鬼の棲家を過ぎて仙郷に入るような気がして昔の支那人の書いた夢のような物語を想い出すのである。シー・ピー・スクラインがパミールの岩山の奥に「幸福の谷」を発見した記事を読んだときにいわゆる武陵桃源の昔話も全くの空想ではないと思ったことであったが・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・そうして七十歳にでもなったらアルプスの奥の武陵の山奥に何々会館、サロン何とかいったような陽気な仙境に桃源の春を探って不老の霊泉をくむことにしよう。 八歳の時に始まった自分の「銀座の幻影」のフィルムははたしていつまで続くかこればかりはだれ・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・ 桃太郎が鬼が島を征服するのがいけなければ、東海の仙境蓬莱の島を、鎚と鎌との旗じるしで征服してしまおうとする赤い桃太郎もやはりいけないであろう。 こんなくだらぬことを赤白両派に分かれて両方で言い合っていれば、秋の夜長にも話の種は尽き・・・ 寺田寅彦 「さるかに合戦と桃太郎」
・・・「それからあの奥に吉野谷という仙境があるだろう。子供の時分遠足に行ったことがあるんで、一度行ってみようと思いながら、いつもどこへも行かずに帰ってしまうんだ。まだ山代さえ知らないくらいだ」 それから遊び場所の選択や、交通の便なぞについ・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・行わるべからざるは明白なる時勢とも心付かずして、我が国人は教育の熱心自から禁ずること能わず、次第次第に高きを勉めて止まるを知らず、俗世界はいぜんとして卑く、教育法はますます高く、学校はあたかも塵俗外の仙境にして、この境内に閉居就学すること幾・・・ 福沢諭吉 「慶応義塾学生諸氏に告ぐ」
・・・私に漢詩を味う力はないが、卒読したところ、それらの詩は、どれも所謂仙境に遊ぶ的境地を詠ったものが多い。白雲飛ぶところ、鶴舞い遊ぶところに、漱石は、「明暗」から日に一度ずつ逃げて行っている。もし漱石が「明暗」完結後まで生きていることが出来たと・・・ 宮本百合子 「文学における今日の日本的なるもの」
出典:青空文庫