・・・ 椿岳は物故する前二、三年、一時千束に仮寓していた。その頃女の断髪が流行したので、椿岳も妻女の頭髪を五分刈に短く刈らして、客が来ると紹介していう、これは同庵の尼でございますと。大抵のお客は挨拶にマゴマゴしてしまった。その頃であった、或る・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・が、少年の筆らしくない該博の識見に驚嘆した読売の編輯局は必ずや世に聞ゆる知名の学者の覆面か、あるいは隠れたる篤学であろうと想像し、敬意を表しかたがた今後の寄書をも仰ぐべく特に社員を鴎外の仮寓に伺候せしめた。ところが社員は恐る恐る刺を通じて早・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・ 五日、いったん湯の川に帰り、引かえしてまた函館に至り仮寓を定めぬ。 六日、無事。 七日、静坐読書。 八日、おなじく。 九日、市中を散歩して此地には居るまじきはずの男に行き逢いたり。何とて父母を捨て流浪せりやと問えば、情・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・秋琴楼に仮寓の昔も思い出さしむ。勘定をすませ丸く肥え太りたる脊低き女に革鞄提げさして停車場へ行く様、痩馬と牝豚の道行とも見るべしと可笑し。この豚存外に心利きたる奴にて甲斐々々しく何かと世話しくれたり。間もなく駆け来る列車の一隅に座を構えて煙・・・ 寺田寅彦 「東上記」
自分が中村彝氏を訪問したのはあとにも先にもただ一度である。 田中舘先生の肖像を頼む事に関して何かの用向きで、中村清二先生の御伴をして、谷中の奥にその仮寓を尋ねて行った。それは多分初夏の頃であったかと思う。谷中の台地から・・・ 寺田寅彦 「中村彝氏の追憶」
・・・ 帰朝当座の先生は矢来町の奥さんの実家中根氏邸に仮寓していた。自分のたずねた時は大きな木箱に書物のいっぱいつまった荷が着いて、土屋君という人がそれをあけて本を取り出していた。そのとき英国の美術館にある名画の写真をいろいろ見せられて、その・・・ 寺田寅彦 「夏目漱石先生の追憶」
・・・ 一時、わたくしの仮寓していた家の裏庭からは竹垣一重を隔て、松の林の間から諏訪田の水田を一目に見渡す。朝夕わたくしはその眺望をよろこび見るのみならず、時を定めず杖をひくことにしている。桃や梨を栽培した畠の藪垣、羊の草をはんでいる道のほと・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
出典:青空文庫