・・・新聞にも上野の彼岸桜がふくらみかけたといって、写真も出ていたが、なるほど、久しぶりで仰ぐ空色は、花曇りといった感じだった。まだ宵のうちだったが、この狭い下宿街の一廓にも義太夫の流しの音が聞えていた。「明日は叔父さんが来るだ……」おせいは・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・窓を開けて仰ぐと、溪の空は虻や蜂の光点が忙しく飛び交っている。白く輝いた蜘蛛の糸が弓形に膨らんで幾条も幾条も流れてゆく。昆虫。昆虫。初冬といっても彼らの活動は空に織るようである。日光が樫の梢に染まりはじめる。するとその梢からは白い水蒸気のよ・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・僕等は生れてこの天地の間に来る、無我無心の小児の時から種々な事に出遇う、毎日太陽を見る、毎夜星を仰ぐ、ここに於てかこの不可思議なる天地も一向不可思議でなくなる。生も死も、宇宙万般の現象も尋常茶番となって了う。哲学で候うの科学で御座るのと言っ・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・さもあらばあれ、われこの翁を懐う時は遠き笛の音ききて故郷恋うる旅人の情、動きつ、または想高き詩の一節読み了わりて限りなき大空を仰ぐがごとき心地す」と。 されど教師は翁が上を委しく知れるにあらず。宿の主人より聞きえしはそのあらましのみ。主・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・「ト云うと天覧を仰ぐということが無理なことになるが、今更野暮を云っても何の役にも立たぬ。悩むがよいサ。苦むがよいサ。」と断崖から取って投げたように言って、中村は豪然として威張った。 若崎は勃然として、「知れたことサ。」と・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・これらは魔法というべきではなく、神教を精誠によって仰ぐのであるから、魔法としては論ぜざるべきことである。仏教巫徒の「よりまし」「よりき」の事と少し似てはいるであろう。 仏教が渡来するに及んで咒詛の事など起ったろうが、仏教ぎらいの守屋も「・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・そして暗く寂しい雪空に、日のめを仰ぐことも稀な頃になると浅間のけぶりも隠れて見えなかった。千曲川の流れですら氷に閉された。私の周囲には降りつもる深い溶けない一面の雪があるばかりであった。その雪は私の旧い住居の庭をも埋めた。どうかすると北向の・・・ 島崎藤村 「三人の訪問者」
・・・青い目で空を仰ぐような事もない。鈍い、悲しげな、黒い一団をなして、男等は並木の間を歩いている。一方には音もなくどこか不思議な底の方から出て来るような河がある。一方には果もない雪の原がある。男等の一人で、足の長い、髯の褐色なのが、重くろしい靴・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・お長は例の泣きだしそうな目もとで自分を仰ぐ。親指と小指と、そして襷がけの真似は初やがこと。その三人ともみんな留守だと手を振る。頤で奥を指して手枕をするのは何のことか解らない。藁でたばねた髪の解れは、かき上げてもすぐまた顔に垂れ下る。 座・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・いまわれは、この講堂の塔の電気時計を振り仰ぐ。試験には、まだ十五分の間があった。探偵小説家の父親の銅像に、いつくしみの瞳をそそぎつつ、右手のだらだら坂を下り、庭園に出たのである。これは、むかし、さるお大名のお庭であった。池には鯉と緋鯉とすっ・・・ 太宰治 「逆行」
出典:青空文庫