・・・しかし伏目勝ちな牧野の妻が、静に述べ始めた言葉を聞くと、彼女の予想は根本から、間違っていた事が明かになった。「いえ、御願いと申しました所が、大した事でもございませんが、――実は近々に東京中が、森になるそうでございますから、その節はどうか・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・ 女房は何となく、手拭の中に伏目になって、声の調子も沈みながら、「三ちゃんは、どうしてそんなだろうねえ。お前さんぐらいな年紀恰好じゃ、小児の持っているものなんか、引奪っても自分が欲い時だのに、そうやってちっとずつ皆から貰うお小遣で、・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・玉なめらかに、きめ細かに、白妙なる、乳首の深秘は、幽に雪間の菫を装い、牡丹冷やかにくずれたのは、その腹帯の結びめを、伏目に一目、きりきりと解きかけつつ、「畜生……」 と云った、女の声とともに、谺が冴えて、銃が響いた。 小県は草に・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・映じて心に往来するものは、土橋でなく、流でなく、遠方の森でなく、工場の煙突でなく、路傍の藪でなく、寺の屋根でもなく、影でなく、日南でなく、土の凸凹でもなく、かえって法廷を進退する公事訴訟人の風采、俤、伏目に我を仰ぎ見る囚人の顔、弁護士の額、・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・面が白蝋のように色澄んで、伏目で聞入ったお澄の、長い睫毛のまたたくとともに、床に置いた大革鞄が、揺れて熊の動くように見えたのである。「あら! 私……」 この、もの淑なお澄が、慌しく言葉を投げて立った、と思うと、どかどかどかと階子段を・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・鼻筋のすっと通ったを、横に掠めて後毛をさらりと掛けつつ、ものうげに払いもせず……切の長い、睫の濃いのを伏目になって、上気して乾くらしい唇に、吹矢の筒を、ちょいと含んで、片手で持添えた雪のような肱を搦む、唐縮緬の筒袖のへりを取った、継合わせも・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・と言い半して、そのまま伏目になって黙ってしまう。「仲人はいいが、どうしたのさ?」 男は目を輝かせながら、「どうだろう? お光さん」「え?」「せめてお光さんの影法師ぐらいのがあるだろうか?」「何だね、この人は! 私ゃ真面目・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・とお政は言ったぎり、伏目になって助の頭を撫でている。母はちょっと助を見たが、お世辞にも孫の気嫌を取ってみる母では無さそうで、実はそうで無い。時と場合でそんなことはどうにでも。「助の顔色がどうも可くないね。いったい病身な児だから余程気をつ・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・ 杜氏は、恭々しく頭を下げて、伏目勝ちに主人の話をきいた。「与助にはなんぼ程貸越しになっとるか?」と、主人は云った。「へい。」杜氏は重ねてお辞儀をした。「今月分はまるで貸しとったかも知れません。」 主人の顔は、少時、むずかし・・・ 黒島伝治 「砂糖泥棒」
・・・主人も女も其威に打たれ、何とも測りかねて伏目にならざるを得なかった。蝋燭の光りにちらついていた金銀などは今誰の心にも無いものになった。主人にも女にも全く解釈の手がかりの無い男だった。「おのれ等」と、見だての無い衣裳を着けている男の口・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
出典:青空文庫