・・・ 円座を打ち敷きて、辰弥は病後の早くも疲れたる身を休めぬ。差し向いたる梅屋の一棟は、山を後に水を前に、心を籠めたる建てようのいと優なり。ゆくりなく目を注ぎたるかの二階の一間に、辰弥はまたあるものを認めぬ。明け放したる障子に凭りて、こなた・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・この冬に肺を病んでから薬一滴飲むことすらできず、土方にせよ、立ちん坊にせよ、それを休めばすぐ食うことができないのであった。「もうだめだ」と、十日ぐらい前から文公は思っていた。それでもかせげるだけはかせがなければならぬ。それできょうも朝五・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・とお源は水を汲む手を一寸と休めて振り向いた。「井戸辺に出ていたのを、女中が屋後に干物に往ったぽっちりの間に盗られたのだとサ。矢張木戸が少しばかし開いていたのだとサ」「まア、真実に油断がならないね。大丈夫私は気を附けるが、お徳さんも盗・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・間の宿とまでもいい難きところなれど、幸にして高からねど楼あり涼風を領すべく、美からねど酒あり微酔を買うべきに、まして膳の上には荒川の鮎を得たれば、小酌に疲れを休めて快く眠る。夜半の頃おい神鳴り雨過ぎて枕に通う風も涼しきに、家居続ける東京なら・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・らば銭あらばと思いつつようよう進むに、足の疲れはいよいよ甚しく、時には犬に取り巻かれ人に誰何せられて、辛くも払暁郡山に達しけるが、二本松郡山の間にては幾度か憩いけるに、初めは路の傍の草あるところに腰を休めなどせしも、次には路央に蝙蝠傘を投じ・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・私は同伴する人たちのことを思い、ようやく回復したばかりのような自分の健康のことも気づかわれて、途中下諏訪の宿屋あたりで疲れを休めて行こうと考えた。やがて、四月の十三日という日が来た。いざ旅となれば、私も遠い外国を遍歴して来たことのある気軽な・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・と、手を休めて、「乗りなんせい。今度のもおとなしゅうがんすわいの」と言ったかと思うと、またすぐに歌になる。「親が二十で子が二十一。どこで算用が違たやら」「ようい、よい」と野袴の一人が囃す。 横の馬小屋を覗いてみたが、中に馬は・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・その時一羽の鳩が森のおくから飛んで来て、寝ついたなりで日をくらす九十に余るおばあさんの家の窓近く羽を休めました。 物の二十年も臥せったなりのこのおばあさんは、二人のむすこが耕すささやかな畑地のほかに、窓越しに見るものはありませなんだが、・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・私はペンを休めて、耳傾ける。下宿と小路ひとつ距て製糸工場が在るのだ。そこの女工さんたちが、作業しながら、唄うのだ。なかにひとつ、際立っていい声が在って、そいつがリイドして唄うのだ。鶏群の一鶴、そんな感じだ。いい声だな、と思う。お礼を言いたい・・・ 太宰治 「I can speak」
・・・と言って、嫁は縫い物の手を休め、ぼんやり私の顔を見守ります。「いや、針仕事をしながらでいい、落ちついて聞いてくれ。これは、お国のため、というよりは、この町のため、いや、お前たち一家のために是非とも、聞きいれてくれろ。だいいちには、圭吾自・・・ 太宰治 「嘘」
出典:青空文庫