・・・て落選し、しかもその官展に反旗をひるがえす程の意気もなく、鞠躬如として審査の諸先生に松蕈などを贈るとかの噂も有之、その甲斐もなく三十年連続の落選という何の取りどころも無き奇態の人物に御座候えども、父祖伝来のかなりの財産を後生大事に守り居る様・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・はなはだ粗野にして見苦しく、われも実父も共に呆れ、孫左衛門殿逝去の後は、われその道を好むと雖も指南を乞うべき方便を知らず、なおまた身辺に世俗の雑用ようやく繁く、心ならずも次第にこの道より遠ざかり、父祖伝来の茶道具をも、ぽつりぽつりと売払い、・・・ 太宰治 「不審庵」
・・・せっかく一身を立てさせようと思えばこそ、祖先伝来の田地を減らしてまで学資を給してくれた父を、まあ失望させたような有様で、草深い田舎にこの年まで燻ぶらせているかと思うと、何となく悲しい心持になってしまうのだ。三十にしてなお俗吏なりと云うような・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・考えてみると実に原始的なもので、おそらく煙草の伝来以来そのままの器械であったろうと思われる。 農夫などにはまだ燧袋で火を切り出しているのがあった。それが羨ましくなって真似をしたことがあったが、なかなか呼吸が六かしくて結局は両手の指を痛く・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・それから引続いて『五人女』『一代女』『一代男』次に『武道伝来記』『武家義理物語』『置土産』という順序で、ごくざっと一と通りは読んでしまった。読んで行くうちに自分の一番強く感じたことは、西鶴が物事を見る眼にはどこか科学者の自然を見る眼と共通な・・・ 寺田寅彦 「西鶴と科学」
・・・もしなんの効能もないとすると、祖先の日本人は仏法伝来と同時に輸入されたというこの唐人のぺてんに二千年越しだまされつづけて無用なやけどをこしらえて喜んでいたわけである。 二千年来信ぜられて来たという事実はそれが真であるという証拠には少しも・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・そうして自分とは縁のない遠い異国の歴史と背景が産み出した新思想を輸入している。伝来の家や田畑を売り払って株式に手を出すと同じ行き方である。 新思想の本元の西洋へ行って見ると、かえって日本人の目にばかばかしく見えるような大昔の習俗や行事が・・・ 寺田寅彦 「田園雑感」
・・・西欧科学を輸入した現代日本人は西洋と日本とで自然の環境に著しい相違のあることを無視し、従って伝来の相地の学を蔑視して建てるべからざる所に人工を建設した。そうして克服し得たつもりの自然の厳父のふるった鞭のひと打ちで、その建設物が実にいくじもな・・・ 寺田寅彦 「日本人の自然観」
・・・甥のあるものは祖先伝来の槍をふり回して猫を突くと言って暗やみにしゃがんでいた事もあった。猫の鳴き声を聞くと同時に槍をほうり出しておいて奥の間に逃げ込むのではあったが。 そんなようなわけで猫というものにあまりに興味のない私はつい縁の下をの・・・ 寺田寅彦 「ねずみと猫」
・・・すなわち仏教伝来以後今日まで日本国民の間に浸潤した無常観が自然の勢いで俳句の中にも浸透したからである。しかし自分の見るところでは、これは偶然のことであって決して俳句の精神と本質的に連関しているものとは思われない。仏教的な無常観から解放された・・・ 寺田寅彦 「俳句の精神」
出典:青空文庫