・・・が次の瞬間には、まるで深谷の身軽さが伝染しでもしたように、風のように深谷の後を追った。 深谷は、寄宿舎に属する松林の間を、忍術使いででもあるように、フワフワとしかも早く飛んでいた。 やがて、代々木の練兵場ほども広いグラウンドに出た。・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・癩病は伝染性にして神ならぬ身に時としては犯さるゝこともある可し。固より本人の罪に非ず。然るを婦人が不幸にして斯る悪疾に罹るの故を以て離縁とは何事ぞ。夫にして仮初にも人情あらば、離縁は扨置き厚く看護して、仮令い全快に至らざるも其軽快を祈るこそ・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・政治の気風が学問に伝染してなお広く他の部分に波及するときは、人間万事、政党をもって敵味方を作り、商売工業も政党中に籠絡せられて、はなはだしきは医学士が病者を診察するにも、寺僧または会席の主人が人に座を貸すにも、政派の敵味方を問うの奇観を呈す・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
・・・いかなる独主独行の士人といえども、この間にひとりするを得ざるは、伝染病の地方にいて、ひとりこれを免かるるの術なきが如し。独立の品行、まことに嘉みすべしといえども、おのずからその限りあるものにして、限界を超えて独立せんとするも、人間生々の中に・・・ 福沢諭吉 「徳育如何」
・・・これは先刻風呂に這入った反動が来たのであるけれど、時機が時機であるから、もしやコレラが伝染したのであるまいかという心配は非常であった。この梅干船(この船は賄が悪いのでこの仇名が我最期の場所かと思うと恐しく悲しくなって一分間も心の静まるという・・・ 正岡子規 「病」
・・・先方の余りの何でもなさがこちらにも伝染し、万一ひょいとした機勢に、愛が「ね、こないだのかみ入れね」と云い出したとしても、照子は瞬き一つせず、勿論極りなど悪がらず、「ああ、あれ、入ってなかったんですね。がっかりしちまった」と笑・・・ 宮本百合子 「斯ういう気持」
・・・を嘲笑し「伝染」というものはないとした。しかし、新鮮な空気の利きめは彼女が自分の目で見、その手で開けた窓々からスクータリーへ導き入れたのである。新鮮な空気が必要なのに、窓を密閉していたとき、それを開放した彼女の方法は貴重であった。けれども、・・・ 宮本百合子 「フロレンス・ナイチンゲールの生涯」
・・・ 相互に真実な愛もなく、一方は無智による無我夢中、一方は醜劣な獣心の跳梁にまかせての性的交渉が結ばれたとしたら、そして、その百鬼夜行の雰囲気が伝染したとしたら、言葉で云えない惨めさです。とがめ、責める先に暗澹とした心持になります。 ・・・ 宮本百合子 「惨めな無我夢中」
・・・そして、梶は自分も少しは彼に伝染して、発狂のきざしがあったのかもしれないと疑われた。梶は玉手箱の蓋を取った浦島のように、呆ッと立つ白煙を見る思いで暫く空を見あげていた。技師も死に、栖方も死んだいま見る空に彼ら二人と別れた横須賀の最後の日が映・・・ 横光利一 「微笑」
・・・先生は自分で味わってみせて、その味わい方をほかの人にも伝染させるのであった。たとえばわかりにくい俳句などを「舌の上でころがしている」やり方などがそれである。わかろうとあせったり、意味を考えめぐらしたりなどしても、味は出てくるものではない。だ・・・ 和辻哲郎 「露伴先生の思い出」
出典:青空文庫