・・・「天才の伝記か何かが善い。」「じゃジァン・クリストフを持って来ようか?」「ああ、何でも旺盛な本が善い。」 僕は詮めに近い心を持ち、弥生町の寄宿舎へ帰って来た。窓硝子の破れた自習室には生憎誰も居合せなかった。僕は薄暗い電燈の下・・・ 芥川竜之介 「彼」
・・・の記述に関する引用書目を挙げて、いささかこの小論文の体裁を完全にしたいのであるが、生憎そうするだけの余白が残っていない。自分はただここに、「さまよえる猶太人」の伝記の起源が、馬太伝の第十六章二十八節と馬可伝の第九章一節とにあると云うベリング・・・ 芥川竜之介 「さまよえる猶太人」
・・・歴史とは大人物の伝記のみとカーライルの喝破した言にいくぶんなりともその理を認むる者は、かの慾望の偉大なる権威とその壮厳なる勝利とを否定し去ることはとうていできぬであろう。自由に対する慾望とは、啻に政治上または経済上の束縛から個人の意志を解放・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・(八兵衛の事蹟については某の著わした『天下之伊藤八兵衛』という単行の伝記がある、また『太陽』の第一号に依田学海の「伊藤八兵衛伝」が載っておる。実業界に徳望高い某子爵は素七 小林城三 椿岳は晩年には世間離れした奇人で名を売った・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・この快楽を目して遊戯的分子というならば、発明家の苦辛にも政治家の経営にもまた必ず若干の遊戯的分子を存するはずで、国事に奔走する憂国の志士の心事も――無論少数の除外はあるが――後世の伝記家が痛烈なる文字を陳ねて形容する如き朝から晩まで真剣勝負・・・ 内田魯庵 「二葉亭四迷」
・・・ステップニャツクの肖像や伝記はその時分まだ知らなかったが、精悍剛愎の気象が満身に張切ってる人物らしく推断して、二葉亭をもまた巌本からしばしば「哲学者である」と聞いていた故、哲学者風の重厚沈毅に加えて革命党風の精悍剛愎が眉宇に溢れている状貌ら・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・余り評判にもならなかったが、那翁三世が幕府の遣使栗本に兵力を貸そうと提議した顛末を夢物語風に書いたもので、文章は乾枯びていたが月並な翻訳伝記の『経世偉勲』よりも面白く読まれた。『経世偉勲』は実は再び世間に顔を出すほどの著述ではないが、ジスレ・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・欧州の政治史も読めば、スペンサーも読む、哲学書も読む、伝記も読む、一時間三十ページの割合で、日に十時間、三百ページ読んでまだ読書の速力がおそいと思ったことすらありました。そしてただいろんな事を止め度もなく考えて、思いにふけったものです。・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・その人生における職分が政治、科学、実業、芸術のいずれの方面に向かおうとも、彼の伝記が書かれるときには、あのワシントンのそれのように、小学校の教科書には「彼は偉大にして、善き人間なりき」と書かれるようにありたいものである。自分如きも、青春期、・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・ 彼の伝記はすでに数多い。今私がここにそれをそのまま縮写するのみでは役立つこと少ないであろう。それはくわしき伝記について見らるるにしくはない。ここには同じ宗教的日本主義者として今日彼に共鳴するところの多い私が、私の目をもって見た日蓮の本・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
出典:青空文庫