・・・多くの秀れた人々の伝記を読むのに一生にただ一つの愛しか持たないというような例は稀である。そこには苦痛を忘却さしてくれるいわゆるレーテの川があり、歳月はいつしか傷を癒やしてまた新しい情熱を生み出してくれるものである。軍人の未亡人の如きも遺児を・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・棚曝しになった聖賢の伝記、読み捨てられた物語、獄中の日誌、世に忘れられた詩歌もあれば、酒と女と食物との手引草もある。今日までの代の変遷を見せる一種の展覧会、とでも言ったような具合に、あるいは人間の無益な努力、徒に流した涙、滅びて行く名――そ・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・彼は云います、『一般に伝記というものは何でも語っているが、只我々にとって重要なことは除外しているものだ。』ぼくは前の饒舌を読み返して、イヤになる。差し上げまいかとも思ったのですが、一遍書いたものは、もう僕と異ったものですから、虚飾にみちた自・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・おそらくは、この少年も昨夜か、けさ、若くして死んだ大数学者の伝記を走り読みしたのに違いない。そのガロアなる少年天才も、あるいは、素裸で激流を泳ぎまくった事実があるのかも知れない。「ガロアが、四月に、まっぱだかで川を泳いだ、とその本に書い・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・「ネロの伝記だ。暴君ネロ。あいつだって、そんなに悪い奴でも無かったのさ。」不覚にも蒼ざめている。美濃は自身のその興奮に気づいて、無理に、にやにや笑いだした。「これから面白くなるのだがな。アグリパイナは、こんなに、ネロを大事に、大事に育て・・・ 太宰治 「古典風」
・・・ 場合によってはかえって先生の味方でなかったあるいは敵であった人々の方面からも隠れた伝記資料を求める事も必要ではないかと思うのである。敵の証言が味方のそれよりもかえって当人の美点を如実に宣明することもしばしばあるのである。 ただいず・・・ 寺田寅彦 「埋もれた漱石伝記資料」
・・・そうして今までに読んだ物語や伝記の中の色々の類似の場面などが甦って眼前に活動するような気がする。そういう意味でジョルジュ・サンドやデューマやバルザックなどの出て来る社交場の光景なども面白い。たとえその描写がどんなに史実的に間違っていても、そ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感6[#「6」はローマ数字、1-13-26]」
・・・といったような堅い伝記物も中学生の机上に見いだされるものであった。同時にまた「国民小説」「新小説」「明治文庫」「文芸倶楽部」というような純文芸雑誌が現われて、露伴紅葉等多数の新しい作家があたかもプレヤデスの諸星のごとく輝き、山田美妙のごとき・・・ 寺田寅彦 「科学と文学」
・・・しかし歴史はいまだかつて、如何なる人の伝記についても、殷々たる鐘の声が奮闘勇躍の気勢を揚げさせたことを説いていない。時勢の変転して行く不可解の力は、天変地妖の力にも優っている。仏教の形式と、仏僧の生活とは既に変じて、芭蕉やハアン等が仏寺の鐘・・・ 永井荷風 「鐘の声」
一 小庭を走る落葉の響、障子をゆする風の音。 私は冬の書斎の午過ぎ。幾年か昔に恋人とわかれた秋の野の夕暮を思出すような薄暗い光の窓に、ひとり淋しく火鉢にもたれてツルゲネーフの伝記を読んでいた。 ツルゲネーフはまだ物心もつ・・・ 永井荷風 「狐」
出典:青空文庫