・・・て茶の間で、都新聞の三面小説を読んでいると、その小説の挿絵が、呀という間に、例の死霊が善光寺に詣る絵と変って、その途端、女房はキャッと叫んだ、見るとその黒髪を彼方へ引張られる様なので、女房は右の手を差伸して、自分の髪を抑えたが、その儘其処へ・・・ 小山内薫 「因果」
・・・また玄関前のタヽキの上には、下宿の大きな土佐犬が手脚を伸して寝そべっていた。彼は玄関へ入るなり、まず敷台の隅の洋傘やステッキの沢山差してある瀬戸物の筒に眼をつける――Kの握り太の籐のステッキが見える――と彼は案内を乞うのも気が引けるので、こ・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ 或日自分は何時のように滑川の辺まで散歩して、さて砂山に登ると、思の外、北風が身に沁ので直ぐ麓に下て其処ら日あたりの可い所、身体を伸して楽に書の読めそうな所と四辺を見廻わしたが、思うようなところがないので、彼方此方と探し歩いた、すると一・・・ 国木田独歩 「運命論者」
・・・ 五月七日 一寝入したかと思うと、フト眼が覚めた、眼が覚めたのではなく可怕い力が闇の底から手を伸して揺り起したのである。 その頃学校改築のことで自分はその委員長。自分の外に六名の委員が居ても多くは有名無実で、本気で世話を焼くもの・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・と両手を伸して大欠伸をして「何時かしらん」「最早直ぐ十二時でしょうよ。お午食にしましょうか」「イヤ未だ腹が一向空かん。会社だと午食の弁当が待遠いようだけどなア」と言いながら其処を出て勝手の座敷から女中部屋まで覗きこんだ。女中部屋・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・一週間ほどするうちに、それまで、全く枯野だった草原が、すっかり青くなって、草は萌え、木は枝を伸し、鵞や鶩が、そここゝを這い廻りだした。夏、彼等は、歩兵隊と共に、露支国境の近くへ移って行った。十月には赤衛軍との衝突があった。彼等は、装甲列車で・・・ 黒島伝治 「雪のシベリア」
・・・と古えの賤の苧環繰り返して、さすがに今更今昔の感に堪えざるもののごとく我れと我が額に手を加えたが、すぐにその手を伸して更に一盃を傾けた。「そうこうするうち次郎坊の方をふとした過失で毀してしまった。アア、二箇揃っていたものをいかに過失・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・男は臂を伸してその頸にかけ、我を忘れたるごとく抱き締めつ、「ムム、ありがてえ、アッハハハハ、ナニ、冗談だあナ。べらぼうめえ、貧乏したって誰が馬鹿なことをしてなるものか。ああ明日の富籤に当りてえナ、千両取れりゃあ気息がつけらあ。エエ酒が無・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・野には明るい日が照り、秋草が咲き、里川が静かに流れ、角のうどん屋では、かみさんがせっせとうどんを伸していた。 私は最初に、かれのつとめていた学校をたずねた。かれの宿直をした室、いっしょに教鞭を取った人たち、校長、それからオルガンの前にも・・・ 田山花袋 「『田舎教師』について」
・・・長き頸の高く伸したるに、気高き姿はあたりを払って、恐るるもののありとしも見えず。うねる流を傍目もふらず、舳に立って舟を導く。舟はいずくまでもと、鳥の羽に裂けたる波の合わぬ間を随う。両岸の柳は青い。 シャロットを過ぐる時、いずくともなく悲・・・ 夏目漱石 「薤露行」
出典:青空文庫