・・・のみならず道楽の念はとにかく道楽の途はまだ開けていなかったから、こうしたい、ああしたいと云う方角も程度も至って微弱なもので、たまに足を伸したり手を休めたりして、満足していたくらいのものだろうと思われる。今日は死ぬか生きるかの問題は大分超越し・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・傾けかけた首をふと持ち直して、心持前へ伸したかと思ったら、白い羽根がまたちらりと動いた。文鳥の足は向うの留り木の真中あたりに具合よく落ちた。ちちと鳴く。そうして遠くから自分の顔を覗き込んだ。 自分は顔を洗いに風呂場へ行った。帰りに台所へ・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・ウィリアムは身を伸したまま口籠る。「鴉に交る白い鳩を救う気はないか」と再び叢中に蛇を打つ。「今から七日過ぎた後なら……」と叢中の蛇は不意を打れて已を得ず首を擡げかかる。「鴉を殺して鳩だけ生かそうと云う注文か……それは少し無理じゃ・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・』 若子さんが白い美しい手を、私の方へお伸しでしたから、私も其手につかまって、二人一緒に抱合う様にして、辛と放れないで待合室の傍まで行ったのでした。此処も一杯で、私達は迚も這入れそうもありませんでした。『若子さん、大層な人ですこと。・・・ 広津柳浪 「昇降場」
・・・めに、女は、従来いい意味での女らしさ、悪い意味での女らしさと二様にだけいわれて来ていたものから、更に質を発展させた第三種めの、女としての人間らしさというものを生み出して、そこで自身のびてゆき、周囲をも伸してゆく心構えがいると思う。これまでい・・・ 宮本百合子 「新しい船出」
・・・犬箱が日向にあって、八ツ手の下に、立ったら一太より勿論大きい斑の洋犬が四つ肢を伸して眠っていた。一太は、立派な大人の男みたいな洋犬を綺麗だと思い、こわいと思い、恍惚した。「おっかちゃん、あんな犬玉子食うかい?」 母は、横眼で門の中を・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・万端数ヵ月のうちに大きく推移してゆくような時代に生き合わせて、受け身に只管失敗のないよう、間違いないようとねがいつつ女の新しい一歩を歩み出そうとしたって、自身の未熟さを思えばそれは手も足もどこに向って伸してよいか分らないようになるのが当り前・・・ 宮本百合子 「女の歴史」
・・・さあ諸君、今こそ諸君の才能を思うままに伸したがよい。そういう意味の強いて名づければ芸術の一般性を土台とした鼓舞が、プロレタリア文学運動が作家に課題として来た諸実践、創作方法を発展せしめるための努力、芸術評価の規準の客観的な確立等に対立するも・・・ 宮本百合子 「今日の文学の鳥瞰図」
・・・ 水色格子服の女性は、若い女のように小指をぴんと伸して三鞭酒盞を摘みあげた。男も。乾杯。 三鞭酒は、気分に於て、我々の卓子にまで配られた。少し晴々し、頻りに談笑するうちに、私は謂わば活動写真的な一場面を見とめた。事実黄金色の軽快なア・・・ 宮本百合子 「三鞭酒」
・・・ やがて宮本が楽しそうに体を伸してそこへ横になった。一寸経って私もそのそばへ横になった。膳を控えて並んでいる男の人達はやはりそこに膝を並べていて、今は顔を動かし何か話している。言葉はききとれないが、その話は何かそっちだけの話だということ・・・ 宮本百合子 「日記」
出典:青空文庫