・・・水仙の一と株に花床が尽きて、低い階段を拾うと、そこが六畳の中二階である。自分が記念に置いて往った摺絵が、そのままに仄暗く壁に懸っている。これが目につくと、久しぶりで自分の家に帰ってきでもしたように懐しくなる。床の上に、小さな花瓶に竜胆の花が・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・町へ出て飲み屋へ行っても、昔の、宿場のときのままに、軒の低い、油障子を張った汚い家でお酒を頼むと、必ずそこの老主人が自らお燗をつけるのです。五十年間お客にお燗をつけてやったと自慢して居ました。酒がうまいもまずいも、すべてお燗のつけよう一つだ・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・不恰好な低い屋根が地震でもあるかのように動揺しながら過ぎていく。ふと気がつくと、車は止まっていた。かれは首を挙げてみた。 楊樹の蔭を成しているところだ。車輛が五台ほど続いているのを見た。 突然肩を捉えるものがある。 日本人だ、わ・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・そのたびに今もいる鴨羽の雌は人間で言わば仲を取りなし顔とでもいったような様子でそば近く寄って行って、いつもとは少しちがった特殊な低い鳴き声を発していたそうであったが、そのうちにある日突然その暴君の雄鳥の姿が池では見られなくなったそうである。・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・ 沼地などの多い、土地の低い部分を埋めるために、その辺一帯の砂がところどころ刳り取られてあった。砂の崖がいたるところにできていた。釣に来たときよりは、浪がやや荒かった。「この辺でも海の荒れることがあるのかね」「それあありますとも・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・遠くに見えた放水路の関門は忽ち眼界を去り、農家の低い屋根と高からぬ樹林の途絶えようとしてはまた続いて行くさまは、やがて海辺に近く一条の道路の走っていることを知らせている。畦道をその方に歩いて行く人影のいつか豆ほどに小さくなり、折々飛立つ白鷺・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・ 犬殺しは太いそうして低い声で応じた。「殺せんなら殺して見ろ」 太十はいきなり犬を引っつるように左手で抱えた。「見やがれ殺しはぐりあるもんか」 犬殺しは毒ついて行ってしまった。太十の怒った顔は其時恐ろしかった。赤は抱かれ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ 即ち新ローマン主義は、昔時のローマン主義のように空想に近い理想を立てずに、程度の低い実際に近い達成し得らるる目的を立てて、やって行くのである。社会は常に、二元である。ローマン主義の調和は時と場所に依り、その要求に応じて二者が適宜に調諧・・・ 夏目漱石 「教育と文芸」
・・・麓の低い平地へかけて、無数の建築の家屋が並び、塔や高楼が日に輝やいていた。こんな辺鄙な山の中に、こんな立派な都会が存在しようとは、容易に信じられないほどであった。 私は幻燈を見るような思いをしながら、次第に町の方へ近付いて行った。そして・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・鰮の罐詰の内部のような感じのする部屋であった。低い天井と床板と、四方の壁とより外には何にも無いようなガランとした、湿っぽくて、黴臭い部屋であった。室の真中からたった一つの電燈が、落葉が蜘蛛の網にでもひっかかったようにボンヤリ下って、灯ってい・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
出典:青空文庫