・・・ 上野の汽笛が遠くへ消えてしまッた時、口笛にしても低いほどの口笛が、調子を取ッて三声ばかり聞えると、吉里はそっと窓を開けて、次の間を見返ッた。手はいつか袂から結び文を出していた。 十一 午前の三時から始めた煤払い・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・その帆は木綿帆でも筵帆でも皆丈が非常に低い。海の舟の帆にくらべると丈が三分の一ばかりしかない。これは今まででもこうであったのであろうが今日始めて見たような心持がしてこの短い帆が甚だおかしくてたまらぬ。けれどもこれが橋の下を通る舟の特色である・・・ 正岡子規 「車上の春光」
・・・そこで何だか今まで頭をぶっつけた低い天井裏が無くなったような気もするけれどもまた支柱をみんな取ってしまった桜の木のような気もする。今日の実習にはそれをやった。去年の九月古い競馬場のまわりから掘って来て植えておいたのだ。今ごろ支柱を取るのはま・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・となりに、百代が萌黄立枠の和服で深く椅子の中に靠れ込み、忠一と低い声であきず何か話していた。忠一は、百代の背中に手をまわすようにして、同じ椅子の肱に横がけしているのだ。その真正面に、もう一冊の活動写真雑誌をひろげて篤介が制服でいた。午後二時・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・と書いた札の張ってある、煤色によごれた戸棚から、しめっぽい書類を出して来て、机の上へ二山に積んだ。低い方の山は、其日々々に処理して行くもので、その一番上に舌を出したように、赤札の張ってある一綴の書類がある。これが今朝課長に出さなくてはならな・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・ あるとき、彼は低い声でそっと妻に訊ねてみた。「お前は、死ぬのが、ちょっとも怖くはないのかね。」「ええ。」と妻は答えた。「お前は、もう生きたいとは、ちょっとも思わないのかね。」「あたし、死にたい。」「うむ。」と彼は頷・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・そこを散歩して、己は小さい丘の上に、樅の木で囲まれた低い小屋のあるのを発見した。木立が、何か秘密を掩い蔽すような工合に小屋に迫っている。木の枝を押し分けると、赤い窓帷を掛けた窓硝子が見える。 家の棟に烏が一羽止まっている。馴らしてあるも・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・彼らは波と戦って勇ましく打ち克つ。しかし敵手が人間になり、さらに自分の心になると、彼らはもう立派な戦士ではない。彼らの活動は真生の面影を暗示する。しかしそれは彼ら自身の生活ではなかった。彼らは低い力と戦っている時にのみ強いのであった。 ・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
出典:青空文庫