・・・好い風の来る夕方もすくなく、露の涼しい朝もすくなければ、暁から鳴く蝉の声、早朝からはじまるラジオ体操の掛声まで耳について、毎日三十度以上の熱した都会の空気の中では夜はあっても無いにもひとしかった。わたしは古人の隠逸を学ぶでも何でもなく、何と・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・塾で体操の教師をしている小山が届けてくれた。小山の家は町の鍛冶屋だ。チョン髷を結った阿爺さんが鍛ってくれたのだ。高瀬はその鉄の目方の可成あるガッシリとした柄のついた鍬を提げて、家の裏に借りて置いた畠の方へ行った。 不思議な風体の百姓が出・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・そのくせ私は話そう話そうと思いながら、まだ袖子さんには早かろうと思って、今まで言わずにあったんですよ……つい、自分が遅かったものですからね……学校の体操やなんかは、その間、休んだ方がいいんですよ。」 こんな話を袖子にして聞かせた。 ・・・ 島崎藤村 「伸び支度」
・・・なわち富者万燈の祭礼、一朝めざむれば、天井の板、わが家のそれに非ず、あやしげの青い壁紙に大、小、星のかたちの銀紙ちらしたる三円天国、死んで死に切れぬ傷のいたみ、わが友、中村地平、かくのごとき朝、ラジオ体操の音楽を聞き、声を放って泣いたそうな・・・ 太宰治 「喝采」
・・・ラジオ体操さえ、私には満足にできないのである。劣等なのは、体格だけでは無い。精神が薄弱である。だめなのである。私には、人を指導する力が無い。誰にも負けぬくらいに祖国を、こっそり愛しているらしいのだが、私には何も言えない。なんだか、のどまで出・・・ 太宰治 「鴎」
・・・ラジオ体操の号令が聞えてまいります。私は、ひとりで侘びしく体操はじめて、イッチ、ニッ、と小さい声出して、元気をよそってみましたが、ふっとたまらなく自分がいじらしくなって来て、とてもつづけて体操できず泣き出しそうになって、それに、いま急激にか・・・ 太宰治 「皮膚と心」
・・・たとえば工場の仕事の合間に号令一下で体操をやってまた仕事にとりかかる。海岸で裸で日光浴をやっているオットセイのような群れも号令でいっせいに寝返りを打ってこちらを向く。おおぜいの子供が原っぱに小さなきのこの群れのように並んで体操をやっている。・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ 年の行かない令嬢が振袖に織物の帯を胸高にしめて踊るのがなんと言ってもこういう民族的の踊りにはふさわしく美しく見えたが、洋装のお嬢さんたちのはどうも表情体操でも見るようで、おかしくはないが全くなんの情味もないものに思われた。それからまた・・・ 寺田寅彦 「沓掛より」
・・・精神の胃が悪くて盛んに吐きけのある患者に無理に豚カツを食わせてみたり、精神の骨がくだけて痛がっているのに無体に体操をさせてみたり、そうかと思うとどこも悪くない人間にギプス包帯をして無理に病院のベッドの上に寝かせるようなことをする場合もありは・・・ 寺田寅彦 「鎖骨」
・・・ 測候所の向かいは兵営で、インド人の兵隊が体操をやっている。運動場のすみの木陰では楽隊が稽古をやっているのをシナ人やインド人がのんきそうに立って聞いている。そのあとをシナ人の車夫が空車をしぼって坂をおりて行く。 船へ帰ると二等へ乗り・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
出典:青空文庫