・・・「おっと、零れる零れる。何しろこうしてお光さんのお酌で飲むのも三年振りだからな。あれはいつだったっけ、何でも俺が船へ乗り込む二三日前だった、お前のところへ暇乞いに行ったら、お前の父が恐ろしく景気つけてくれて、そら、白痘痕のある何とかいう・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・早如何することも出来ない、車屋と思ったが、あたりには、人の影もない、橋の上も一尺ばかり水が出て、濁水がゴーゴーという音を立てて、隅田川の方へ流込んでいる、致方がないので、衣服の裾を、思うさま絡上げて、何しろこの急流故、流されては一大事と、犬・・・ 小山内薫 「今戸狐」
・・・ところが或日若夫婦二人揃で、さる料理店へ飯を食いに行くと、またそこの婢女が座蒲団を三人分持って来たので、おかしいとは思ったが、何しろ女房の手前もあることだから、そこはその儘冗談にまぎらして帰って来たが、その晩は少し遅くなったので、淋しい横町・・・ 小山内薫 「因果」
・・・私はさっそくやってみましたが、何しろはじめは夢中になるくせにすぐへたばってしまう性質ですから、力を平均に使うということを知りません。だから最初の二三時間はひどく能率を上げても、あとがからきしだめで、ほかの人夫が一日七十銭にも八十銭にもなるの・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・逃げるに逃げられんよ。何しろエレヴェーターがきゃつらの前だからね。――ああ眠い」 欠伸をして、つるりと顔を撫ぜた。昨夜から徹夜をしているらしいことは、皮膚の色で判った。 橙色の罫のはいった半ぺらの原稿用紙には「時代の小説家」という題・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・「何しろ身分が身分なんだから、それは大したものに違いなかろうからな、一々開けて検べて見るなんて出来た訳のものではなかろう。つまり偶然に、斯うした傷物が俺に当ったという訳だ……」 それが当然の考え方に違いなかった。併し彼は何となく自分・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・突然明い所へ出ると、少女の両眼には涙が一ぱい含んでいて、その顔色は物凄いほど蒼白かったが、一は月の光を浴びたからでも有りましょう、何しろ僕はこれを見ると同時に一種の寒気を覚えて恐いとも哀しいとも言いようのない思が胸に塞えてちょうど、鉛の塊が・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・ よく聞くと、日本人が居さえすれば安全だ。そこで、支那人は、一日十円も出して、わざわざそいつを傭っているんだという。 ところで、俺れの加わった防備隊だ。 何しろ、事件が突発したのが、十八日の午後十時すぎだろう。それから二時間たっ・・・ 黒島伝治 「防備隊」
・・・「まあ君、そこへ腰掛けたまえ。」 と、自分は馴々敷い調子で言った。男は自分の思惑を憚るかして、妙な顔して、ただもう悄然と震え乍ら立って居る。「何しろ其は御困りでしょう。」と自分は言葉をつづけた。「僕の家では、君、斯ういう規則にし・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・「武士だからな。」大隅君は軽く受流した。「それだから、僕だって、わざわざ北京から出かけて来たんだ。そうでもなくっちゃあ、――」言うことが大きい。「何しろ名誉の家だからな。」「名誉の家?」「長女の婿は三、四年前に北支で戦死、家族はいま・・・ 太宰治 「佳日」
出典:青空文庫