・・・この子を助けようと思ったら何せ一心に天理王様に頼まっしゃれ。な。合点か。人間業では及ばぬ事じゃでな」 笠井はそういってしたり顔をした。仁右衛門の妻は泣きながら手を合せた。 赤坊は続けさまに血を下した。そして小屋の中が真暗になった日の・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・あらかじめロープをもって銘の身をつないで、一人が落ちても他が踏止まり、そして個の危険を救うようにしてあったのでありますけれども、何せ絶壁の処で落ちかかったのですから堪りません、二人に負けて第三番目も落ちて行く。それからフランシス・ダグラス卿・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・毎晩、私が黙って居ても、夕食のお膳に大きい二合徳利がつけてあって、好意を無にするのもどうかと思い、私は大急ぎで飲むのでありますが、何せ醸造元から直接持って来て居るお酒なので、水など割ってある筈は無し、頗る純粋度が高く、普通のお酒の五合分位に・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・ 作家は、いよいよ窮屈である。何せ、眼光紙背に徹する読者ばかりを相手にしているのだから、うっかりできない。あんまり緊張して、ついには机のまえに端座したまま、そのまま、沈黙は金、という格言を底知れず肯定している、そんなあわれな作家さえ出て・・・ 太宰治 「一歩前進二歩退却」
・・・主人がこれまで、たいへんなご迷惑ばかりおかけしてまいりましたようで、また、今夜は何をどう致しました事やら、あのようなおそろしい真似などして、おわびの申し上げ様もございませぬ。何せ、あのような、変った気象の人なので」 と言いかけて、言葉が・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・必ず家へ帰って来る。何せ、あれの嫁は、あれには不似合いなほどの美人なんだから、必ず家へ帰る。そこで、あなたに一つお願いがある。あなたは、あの夫婦の媒妁人だった筈だし、また、かねてからあの夫婦は、あなたを非常に尊敬している。いや、ひやかしてい・・・ 太宰治 「嘘」
・・・鋭い歯はありませんけれども何せ力が強うございますから、人間の指の一本や二本は、わけなく食いちぎるそうで、どうも、いやになります。その点に就いても私は山椒魚に対して常に十分の敬意を怠らぬつもりでございます。割合におとなしい動物でありますけれど・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・これを結納金として、あなたのほうへ、差上げよという意味らしいのですが、何せどうも突然の事で、何が何やら。」「ごもっともでございます。山田さんが郷里へお帰りになりましたので、私共も心細く存じておりましたところ、昨年の暮に、大隅さんから直接・・・ 太宰治 「佳日」
・・・困るのは、あなたたちだけでしょう。何せ、クビになるんだから。何十年かの勤続も水泡に帰するんだから。そうして、あなたの妻子が泣くんだから。ところが、こっちはもう、仕事のために、ずっと前から妻子を泣かせどおしなんだ。好きで泣かせているんじゃない・・・ 太宰治 「家庭の幸福」
・・・どんな、ものでしょう。何せ、僕は、よく知らんので。」私の答弁は、狡猾の心から、こんなに煮え切らないのでは無くて、むしろ、卑屈の心から、こんなに、不明瞭になってしまうのである。皆、私より偉いような気がしているし、とにかく誰でも一生懸命、精一ぱ・・・ 太宰治 「鴎」
出典:青空文庫