・・・ おからだがいよいよお弱りになっていらっしゃるのが私にはちゃんとわかっていましたが、何せ奥さまは、お客と対する時は、みじんもお疲れの様子をお見せにならないものですから、お客はみな立派そうなお医者ばかりでしたのに、一人として奥さまのお具合・・・ 太宰治 「饗応夫人」
・・・つぎの停留場まで歩こう。何せ、これは、お前にとって重大問題だろうからな。二人で、対策を研究してみようじゃないか。」 文士は、その日、退屈していたものと見えて、なかなか田島を放さぬ。「いいえ、もう、僕ひとりで、何とか、……」「いや・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
・・・大いに努力してその境地を獲得した途端に、急に人が変って様子ぶった男になり、かねてあんなに憎悪していたサロンにも出入し、いや出入どころか、自分からチャチなサロンを開設し半可通どもの先生になりはしないか。何せどうも、気が弱くてだらしない癖に、相・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・どうです、奥さん、東京にいた時も、こっちへ来てからも、修治に対して俺ほどこんな無遠慮に親しく口をきける男は無かったろう。何せ昔の喧嘩友達だから、修治も俺には、気取る事が出来やしない」 ここに於いて、彼の無遠慮も、あきらかに意識的な努力で・・・ 太宰治 「親友交歓」
・・・魚容は一揖して、「何せどうも、身は軽くして泥滓を離れたのですからなあ。叱らないで下さいよ。」とつい口癖になっているので、余計な一言を附加えた。「存じて居ります。」と雌の烏は落ちついて、「ずいぶんいままで、御苦労をなさいましたそうですから・・・ 太宰治 「竹青」
・・・ 兄は真面目に、「昔は出来たのだが、いまは人手も無いし、何せ爆弾騒ぎで、庭師どころじゃなかった。この庭もこれで、出鱈目の庭ではないのだ。」「そうでしょうね。」弟には、庭の趣味があまりない。何せ草ぼうぼうの廃園なんかを、美しいと思・・・ 太宰治 「庭」
・・・日々の営みの努力は、ひんまがった釘を、まっすぐに撓め直そうとする努力に、全く似ています。何せ小さい釘のことであるから、ちからの容れどころが無く、それでも曲った釘を、まっすぐに直すのには、ずいぶん強い圧力が必要なので、傍目には、ちっとも派手で・・・ 太宰治 「八十八夜」
・・・けれども、何せれいの家の建て直しに、着て出る着物の調整に、やっさもっさ、心をくだき、あまりの向上心に、いきおい守るほうを失念してしまっていた。人間のアビリティの限度、いたしかたの無いものである。たしかに一方、抜けていた。まさしく破綻の形であ・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・印刷工場で、団体見学の女学生などにみられるときもはずかしかったが、竹細工はもっとはずかしかった。何せみられる方が一人ぽっちであった。いい若いもんが手内職みたいな仕事をしているということもあった。しかし、それがどうして悪いのだろう? 何でこん・・・ 徳永直 「白い道」
・・・一千九百二十六年六月十四日 今日はやっと正午から七時まで番水があたったので樋番をした。何せ去年からの巨きなひびもあるとみえて水はなかなかたまらなかった。くろへ腰掛けてこぼこぼはっていく温い水へ足を入れていてついとろっとしたら・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
出典:青空文庫