・・・ そうして頂ければ何よりの仕合せでございます。」 神父は優しい感動を感じた。やはりその一瞬間、能面に近い女の顔に争われぬ母を見たからである。もう前に立っているのは物堅い武家の女房ではない。いや日本人の女でもない。むかし飼槽の中の基督に美・・・ 芥川竜之介 「おしの」
・・・「そりゃまあ何よりだね。僕なんぞもいつ死ぬかわからないが、……」 僕はちょっとSの顔を眺めた。SはやはりS自身は死なずに僕の死んだことを喜んでいる、――それをはっきり感じたのだった。するとSもその瞬間に僕の気もちを感じたと見え、厭な・・・ 芥川竜之介 「死後」
・・・ ――ああ、一口、水がほしい―― 実際、信也氏は、身延山の石段で倒れたと同じ気がした、と云うのである。 何より心細いのは、つれがない。樹の影、草の影もない。噛みたいほどの雨気を帯びた辻の風も、そよとも通わぬ。 ……その冷く快・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・そうかッてな、もしやの事があるとすると、何より恐ろしいのはこの風だよ。ジャンと来て見ろ、全市瓦は数えるほど、板葺屋根が半月の上も照込んで、焚附同様。――何と私等が高台の町では、時ならぬ水切がしていようという場合ではないか。土の底まで焼抜ける・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・僕も民子の姿を見れば来い来いと云うて二人で遊ぶのが何より面白かった。 母からいつでも叱られる。「また民やは政の所へ這入ってるナ。コラァさっさと掃除をやってしまえ。これからは政の読書の邪魔などしてはいけません。民やは年上の癖に……」・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・「実の処おれは、それを聞きたさに今日も寄ったのだ、そういう話を聞くのがおれには何よりの御馳走だ、うんお前も仕合せになった」 こんな訳で話はそれからそれと続く、利助の馬鹿を尽した事から、二人が殺すの活すのと幾度も大喧嘩をやった話もあっ・・・ 伊藤左千夫 「姪子」
・・・「それは何よりの好物です。――ところで、先生、私はこれでもなかなか苦労が絶えないんでございますよ。娘からお聴きでもございましょうが、芸者の桂庵という仕事は、並み大抵の人には出来ません。二百円、三百円、五百円の代物が二割、三割になるんです・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・日本の野菜料理が衛養に富んでるのは何よりこれが第一の証拠だ、」というのが鴎外の持論であった。「牛や象を見たまえ、皆菜食党だ。体格からいったら獅子や虎よりも優秀だ。肉食でなければ営養が取れないナゾというのは愚論だよ。」 が、鴎外は非麦・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・これが一日の中の何よりの楽みであった。『平凡』に「……ポチが私に対うと……犬でなくなる。それとも私が人間でなくなるのか?……どっちだかそれは解らんが、とにかく相互の熱情熱愛に人畜の差別を撥無して、渾然として一如となる、」とあるはこの瞬間の心・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・故にその時代を見ようと思えば、当時の雑誌こそ、何より有益な文献でなければなりません。 この意味からいっても、同人雑誌は極めて有意義のものです。新しい芸術上の運動も、そのはじめは、同志の綜合であり、同人雑誌を戦闘の機関としなかったものはな・・・ 小川未明 「書を愛して書を持たず」
出典:青空文庫