・・・所の人の話だと言って、そのお婆さんの死んだあとは例の親爺さんがお婆さんに代わって娘の面倒をみてやっていること、それがどんな工合にいっているのか知らないが、その親爺さんが近所へ来ての話に「死んだ婆さんは何一つ役に立たん婆さんやったが、ようまあ・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・そして姉も弟も初めのうちは小学校に出していたのが、二人とも何一つ学び得ず、いくら教師が骨を折ってもむだで、到底ほかの生徒といっしょに教えることはできず、いたずらに他の腕白生徒の嘲弄の道具になるばかりですから、かえって気の毒に思って退学をさし・・・ 国木田独歩 「春の鳥」
・・・ズックの袋も、破れ靴も、夏の帽子も何一つ残っていなかった。「くそッ! 畜生! 百円がところ品物を持ち逃げしやがった!」おやじは口をとがらしていた。 呉清輝と田川とはおやじが扉の外に見えなくなると、吹きだすようにヒヒヒヒと笑いだした。・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・私のからだにあるもので、何一つその痕跡をとどめないものはない。髪はめっきり白くなり、すわり胼胝は豆のように堅く、腰は腐ってしまいそうに重かった。朝寝の枕もとに煙草盆を引きよせて、寝そべりながら一服やるような癖もついた。私の姉がそれをやった時・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ 婆さんは不思議そうに、「奥様の御召物で御座いますか。何一つ御残し遊ばした物は御座いません。何から何まで御生家の方へ御送りしたんですもの……何物も置かない方が好いなんと仰って……そりゃ、旦那様、御寝衣まで後で私が御洗濯しまして、御蒲・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・「そんなことはかまわないんですけどね、あたしこちらへまいってから、いつも鬱いでばかりいて、何一つろくにお手伝いしたこともないんでしょう」 自分は立膝をして、物尺を持って針山の針をこつこつ叩いて、順々に少しずつ引っこませていたが、ふと・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・それがりっぱな王子だと分ったので、おむこさんとして何一つ申し分がありません。王女は大よろこびで夜があけるとすぐに王さまのところへいって、ゆうべのことをのこらずお話しました。 すると王さまは、たった一人の王女を、しらない人にくれるのがおし・・・ 鈴木三重吉 「ぶくぶく長々火の目小僧」
・・・わたしの食べ物も着物も癖も何もかもみなお前さんに貰ったので、わたしの方からお前さんに遣ったものといっては何一つないわ。そうして見ると、わたし盗坊ね。お前さんは目が覚めて見ると、わたしに何もかも取られてしまっているのだわ。それをわたしは取って・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・ その日は、クリスマスの、前夜祭とかいうのに当っていたようで、そのせいか、お客が絶えること無く、次々と参りまして、私は朝からほとんど何一つ戴いておらなかったのでございますが、胸に思いがいっぱい籠っているためか、おかみさんから何かおあがり・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
「戦争が終ったら、こんどはまた急に何々主義だの、何々主義だの、あさましく騒ぎまわって、演説なんかしているけれども、私は何一つ信用できない気持です。主義も、思想も、へったくれも要らない。男は嘘をつく事をやめて、女は慾を捨てたら・・・ 太宰治 「嘘」
出典:青空文庫