・・・ 愛し合っているということは知り得たものの、青扇の何者であるかは、どうも僕にはよくつかめなかったのである。いま流行のニヒリストだとでもいうのか、それともれいの赤か、いや、なんでもない金持ちの気取りやなのであろうか、いずれにもせよ、僕はこ・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・耳に響くはただ身を焼く熱に湧く血の音と、せわしい自分の呼吸のみである。何者とも知れぬ権威の命令で、自分は未来永劫この闇の中に封じ込められてしまったのだと思う。世界の尽きる時が来ても、一寸もこの闇の外に踏み出すことは出来ぬ。そしていつまで経っ・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・子供が将来何者になるかは未知の事に属する。これを憂慮すれば子供はつくらぬに若くはない。 わたくしは既に中年のころから子供のない事を一生涯の幸福と信じていたが、老後に及んでますますこの感を深くしつつある。これは戯語でもなく諷刺でもない。窃・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・ 折から烈しき戸鈴の響がして何者か門口をあける。話し手ははたと話をやめる。残るはちょと居ずまいを直す。誰も這入って来た気色はない。「隣だ」と髯なしが云う。やがて渋蛇の目を開く音がして「また明晩」と若い女の声がする。「必ず」と答えたのは男・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・此主君とは抑も何者なるや。記者は封建時代の人にして、何事に就ても都て其時代の有様を見て立論することなれば、君臣主従は即ち藩主と士族との関係にして、其士族たる男子には藩の公務あれども、妻女は唯家の内に居るが故に婦人に主君なしと放言したることな・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・新虚栗の時何者をか攫まんとして得るところあらず。芭蕉死後百年に垂んとしてはじめて蕪村は現われたり。彼は天命を負うて俳諧壇上に立てり。されども世は彼が第二の芭蕉たることを知らず。彼また名利に走らず、聞達を求めず、積極的美において自得したりとい・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・の中で、「基督は、何者にもまして個人主義者の最高の位置を占むべき人である」と云うて居る。 真の箇人主義は斯くあるべきではないか。 私の云う霊を失った哀れなる亡霊の多くは、箇人主義を称えて、自らを害うて顧見ない。 自己の上に輝・・・ 宮本百合子 「大いなるもの」
・・・権右衛門は何者かに水落をしたたかつかれたが懐中していた鏡にあたって穂先がそれた。創はわずかに血を鼻紙ににじませただけである。 権右衛門は討入りのときのめいめいの働きをくわしく言上して、第一の功を単身で弥五兵衛に深手を負わせた隣家の柄本又・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・此の潜める生来の彼の高貴な稟性は、終に彼の文学から我が文学史上に於て曾て何者も現し得なかった智的感覚を初めて高く光耀させ得た事実をわれわれは発見する。かくしてそれは、清少納言の官能的表徴よりも遥に優れた象徴的感覚表徴となって現れた。それは彼・・・ 横光利一 「新感覚論」
・・・憐れなる悩める者も誠実な勇気と努力とをもってすればついには何者かになり得るのです。偉大な人々の悲劇的生活は私たちの慰藉でありまた鞭であります。彼らが小さい一冊の本を書くためにも、その心血を絞り永年の刻苦と奮闘とを通り抜けなければならなかった・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫