・・・「その頃の彼の手紙は、今でも私の手もとに保存してありますが、それを一々読み返すと、当時の彼の笑い顔が眼に見えるような心もちがします。三浦は子供のような喜ばしさで、彼の日常生活の細目を根気よく書いてよこしました。今年は朝顔の培養に失敗した・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・すると十円を返すためにはこの十円札を保存しなければならぬ。この十円札を保存するためには、――保吉は薄暗い二等客車の隅に発車の笛を待ちながら、今朝よりも一層痛切に六十何銭かのばら銭に交った一枚の十円札を考えつづけた。 今朝よりも一層痛切に・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・ 梅雨期のせいか、その時はしとしとと皮に潤湿を帯びていたのに、年数も経ったり、今は皺目がえみ割れて乾燥いで、さながら乾物にして保存されたと思うまで、色合、恰好、そのままの大革鞄を、下にも置かず、やっぱり色の褪せた鼠の半外套の袖に引着けた・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・幸い無事に保存されていても今戸は震害地だったから地震の火事で焼けてしまったろう。 椿岳は晩年には『徒然草』を好んで、しばしば『徒然草』を画題とした。堀田伯爵のために描いた『徒然草』の貼交ぜ屏風一双は椿岳晩年の作として傑作の中に数うべきも・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・『魯文珍報』は黎明期の雑誌文学中、較や特色があるからマダシモだが、『親釜集』が保存されてるに到っては驚いてしまった。 一と頃江戸図や武鑑を集めていた事があった。本郷の永盛の店頭に軍服姿の鴎外を能く見掛けるという噂を聞いた事もある。その頃・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・ 女房は自分の名誉を保存しようとは思っておらぬらしい。たったさっきまで、その名誉のために一命を賭したのでありながら、今はその名誉を有している生活というものが、そこに住う事も、そこで呼吸をする事も出来ぬ、雰囲気のない空間になったように、ど・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・「それだから、美しい実のなるのも、木には、深い意味があるので、自分の種類を保存することになるのです。」「人間は、どうなんですか。」「どう、おまえは考えるの。お父さんや、お母さんは、だんだん年をとって、働くことができなくなります。・・・ 小川未明 「赤い実」
・・・ これから見ても、和本は、出版の部数は少なかったけれど、これを求めた人は愛玩し、また、古本となって、露店へ出ても、買った人は大事にして、本箱に樟脳をいれたりして、永久に保存したでありましょう。この場合、他の骨董品と同じく、数が少なければ・・・ 小川未明 「書を愛して書を持たず」
・・・志賀山流の伝統保存のためであることは言うまでもない。――こんな話を、私は三ちゃんに語ったのである。 織田作之助 「起ち上る大阪」
・・・ 母親の抱擁、頬ずり、キッス、頭髪の愛撫、まれには軽ろい打擲さえも、母性愛を現実化する表現として、いつまでも保存さるべきものである。おしっこの世話、おしめの始末、夜泣きの世話、すべて直接に子どもの肉体的、生理的な方面に関係のあるケヤーは・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
出典:青空文庫