・・・よく見ると、そのようにおおらかな、まるで桃太郎のように玲瓏なキリストのからだの、その腹部に、その振り挙げた手の甲に、足に、まっくろい大きい傷口が、ありありと、むざんに描かれて在る。わかる人だけには、わかるであろう。私は、堪えがたい思いであっ・・・ 太宰治 「俗天使」
・・・一箇月たって腹部の傷口だけは癒着した。けれども私は伝染病患者として、世田谷区・経堂の内科病院に移された。Hは、絶えず私の傍に附いていた。ベエゼしてもならぬと、お医者に言われました、と笑って私に教えた。その病院の院長は、長兄の友人であった。私・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・長い細い触角でもって虚空を手さぐり、ほのかに、煙くらいの眠りでも捜し当てたからには、逃がすものか、ぎゅっとひっ捕えて、あわてて自分のふところを裁ち割り、無理矢理そのふところの傷口深く、睡眠の煙を詰め込んで、またも、ゆらゆら触角をうごかす。眠・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・父の猟銃でのど笛を射って、即死した。傷口が、石榴のようにわれていた。 さちよは、ひとり残った。父の実家が、さちよの一身と財産の保護を、引き受けた。女学校の寮から出て、また父の実家に舞いもどって、とたんに、さちよは豹変していた。 十七・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・たとえば月を断ち切る雲が、女の目を切る剃刀を呼び出したり、男の手のひらの傷口から出て来る蟻の群れが、女の腋毛にオーバーラップしたりする。そういう非現実的な幻影の連続の間に、人間というものの潜在的心理現象のおそるべき真実を描写する。この点でこ・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・剥製の獣じゃあるめえし、傷口に、ただの綿だけ押し込んどいて、それで傷が癒りゃ、医者なんぞ食い上げだ! いいか、覚えてろ! 万寿丸は室浜の航海だ。月に三回はいやでも浜に入って来らあ。海事局だって、俺の言い分なんか聞かねえ事あ、手前や船長が御託・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・ 汽車は沿岸に沿うて走った。傷口のような月は沈んだ。海は黒く眠っていた。 彼の、先天的に鋭い理智と、感情とは、小僧っ子の事で一杯になっていた。 四十年間、絶えず彼を殴りつづけて来た官憲に対する復讐の方法は、彼には唯一つしかな・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・そしてそれを振った。これも効力がなかった。血は冷たい叩きの上へ振り落とされた。 私は誰も来ないのに、そういつまでも、血の出る足を振り廻している訳にも行かなかった。止むなく足を引っ込めた。そして傷口を水で洗った。溝の中にいる虫のような、白・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・どうでも今のうちに、この海に向いたほうへボーリングを入れて傷口をこさえて、ガスを抜くか熔岩を出させるかしなければならない。今すぐ二人で見に行こう。」二人はすぐにしたくして、サンムトリ行きの汽車に乗りました。六 サンムトリ火山・・・ 宮沢賢治 「グスコーブドリの伝記」
・・・チュンセ童子が大烏の胸の傷口に口をあてました。ポウセ童子が申しました。「チュンセさん。毒を呑んではいけませんよ。すぐ吐き出してしまわないといけませんよ。」 チュンセ童子が黙って傷口から六遍ほど毒のある血を吸ってはき出しました。すると・・・ 宮沢賢治 「双子の星」
出典:青空文庫