・・・ 僕の左に坐ったのは僕のおととい江丸の上から僅かに一瞥した支那美人だった。彼女は水色の夏衣裳の胸に不相変メダルをぶら下げていた。が、間近に来たのを見ると、たとい病的な弱々しさはあっても、存外ういういしい処はなかった。僕は彼女の横顔を見な・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・幾抱えもある椴松は羊歯の中から真直に天を突いて、僅かに覗かれる空には昼月が少し光って見え隠れに眺められた。彼れは遂に馬力の上に酔い倒れた。物慣れた馬は凸凹の山道を上手に拾いながら歩いて行った。馬車はかしいだり跳ねたりした。その中で彼れは快い・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ 下闇ながら――こっちももう、僅かの処だけれど、赤い猿が夥しいので、人恋しい。 で透かして見ると、判然とよく分った。 それも夢かな、源助、暗いのに。―― 裸体に赤合羽を着た、大きな坊主だ。」「へい。」と源助は声を詰めた。・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・ 水の溜ってる面積は五、六町内に跨がってるほど広いのに、排水の落口というのは僅かに三か所、それが又、皆落口が小さくて、溝は七まがりと迂曲している。水の落ちるのは、干潮の間僅かの時間であるから、雨の強い時には、降った水の半分も落ちきらぬ内・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・親子四人の為めに僅かの給料で毎日々々こき使われ、帰って晩酌でも一杯思う時は、半分小児の守りや。養子の身はつらいものや、なア。月末の払いが不足する時などは、借金をするんも胸くそ悪し、いッそ子供を抱いたまま、湖水へでも沈んでしまおか思うことがあ・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・ その次の『柵草紙』を見ると、イヤ書いた、書いた、僅か数行に足らない逸話の一節に対して百行以上の大反駁を加えた。要旨を掻摘むと、およそ弁論の雄というは無用の饒舌を弄する謂ではない、鴎外は無用の雑談冗弁をこそ好まないが、かつてザクセンの建・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・それが得られないために、僅かに憧憬によって、悲惨な生活にも堪え得るのだ。 漂浪者の多くは、曾て郷土に反抗した人達であった。しかして、流浪の末に、最後に心の慰安を多くそこに見出したと知る時、私達は、土と人間の関係について今更の如く考えさせ・・・ 小川未明 「彼等流浪す」
・・・が、僅かに私の容貌の中で、これだけは年相応だと思われるのは、房々とした黒い長髪である。私の頭には一本の白髪もなく、また禿げ上った形跡もない。人一倍髪の毛が長く、そして黒い。いわばこの長髪だけが無疵で残って来たという感じである。おまけにこの長・・・ 織田作之助 「髪」
・・・そしてよう/\恰好な家を見つけて、僅かばかしの手附金を置いて、晩に引越して来るということにして帰って来た。がやっぱし細君からの為替が来てなかった。昨日の朝出した電報の返事すら来てなかった。 三 その翌日の午後、彼は思・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・と一語僅かに洩し得たばかり。妻は涙の泉も涸たか唯だ自分の顔を見て血の気のない唇をわなわなと戦わしている。「じゃア母上さんが……」と言いかけるのを自分は手を振って打消し、「黙っておいで、黙っておいで」と自分は四囲を見廻して「これから新・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
出典:青空文庫