・・・従来酒は嫌な上に女の情というものを味う機会がなかったので彼は唯働くより外に道楽のない壮夫であった。其勤勉に報うる幸運が彼を導いて今の家に送った。彼は養子に望まれたのである。其家は代々の稼ぎ手で家も屋敷も自分のもので田畑も自分で作るだけはあっ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・れば、己のために千円使うことができるのだから誠に結構なことで、諸君もなるべく精出して人のためにお働きになればなるほど、自分にもますます贅沢のできる余裕を御作りになると変りはないから、なるべく人のために働く分別をなさるが宜しかろうと思う。・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・一にして無限の多を含むものでなければならない、即ち自ら働くものでなければならない。然らざれば、それは自己自身によってあるものとはいわれない。自己自身によって動くもの、即ち自ら働くものは、自己自身の中に絶対の自己否定を包むものでなければならな・・・ 西田幾多郎 「デカルト哲学について」
・・・だから働くんだ。働いて怪我をしても、働けなくなりゃ食えないんだ!―― 私は一つの重い計画を、行李の代りに背負って、折れた歯のように疼く足で、桟橋へ引っ返した。――一九二六、七、一〇――・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・されば男女の智愚は事柄に由て異なり、場所に由て異なり、即ち家の内事と戸外の事と其働く処に随て趣を異にするのみのことなれば、苟も其人を教えて事に慣れしむるときは、天性の許す限り男子にして女子の事を執る可く、女子にして男子の業を成す可し。其例証・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・そうしたならば今まで影のように思っていた世の中の物事が生きて働くようになろう。そうしたら受ける身も授ける身も今までのように冷かになっていないで、到る処生きた人間に逢われよう。(死は冷然として取り合わぬ様子ゆえ、主人は次第に恐を抱どうぞどうぞ・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・ そこでカン蛙ははじめてルラ蛙といっしょになりほかの蛙も大へんそれからは心を改めてみんなよく働くようになりました。 宮沢賢治 「蛙のゴム靴」
・・・この稲田に注がれている農村の女の労働力はいかばかりかしれないのに、日本の家族制度では、女は馬の次に考えられ、かあさんたちの一人もこの稲田の持ち主ではないだろう。働く婦人が、まっさきに勘定されるのはクビキリの場合だけである。これは国鉄にはっき・・・ 宮本百合子 「青田は果なし」
・・・ 高見権右衛門が十文字槍をふるって働く間、半弓を持った小姓はいつも槍脇を詰めて敵を射ていたが、のちには刀を抜いて切って廻った。ふと見れば鉄砲で権右衛門をねらっているものがある。「あの丸はわたくしが受け止めます」と言って、小姓が権右衛・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・ 彼は働くことが出来なかった。働くに適した思考力は彼の頭脳を痛めるのだ。それ故彼は食うことが出来なかった。彼はただ無為の貴さを日毎の此の丘の上で習わねばならなかった。ここでは街々の客観物は彼の二つの視野の中で競争した。 北方の高台に・・・ 横光利一 「街の底」
出典:青空文庫