・・・住んでいるように思われて、ひょっとしたら、私のこの手記がそのひとの眼にふれる事がありはせぬか、またはそのひとの眼にふれずとも、そのひとの知合いのお方が読んで、そのひとに告げるとか、そのような万に一つの僥倖が、……いやいや、それは無理だ、そん・・・ 太宰治 「たずねびと」
・・・伯爵中尉の気まぐれも非常であるが、小さい銀行員の僥倖も非常である。あんな結構な旅行を、何もあのチルナウエルにさせないでも好さそうなものだ。誰だって同じ旅行が出来たら、あの男よりは有利にそれをし遂げるだろうに。 チルナウエルの旅程が遠くな・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・しかしこの成功が決して偶然の僥倖によるものではなくてちゃんとした科学的な基礎の上に立つものであるということを知る人が少ないようである。ウィーゼ氏の話によると数年来かの国の気象学者たちは、気圧その他の気象学的要素の配置から夏期における北氷洋上・・・ 寺田寅彦 「北氷洋の氷の割れる音」
・・・ 歯のいい人は、おそらく、この卑近な幸福を自覚する僥倖を持たないに相違ない。 この幸福がいつまで持続するか疑問である。たぶん一種の指数曲線か何かに従って、漸近的にゼロに向かって行くだろう。 こんな幸福があまり持続しては、困る事だ・・・ 寺田寅彦 「鑢屑」
・・・文壇の僥倖児といわれるのは、けだし正宗君の言を俟つに及ぶまい。 大正改元の翌年市中に暴動が起った頃から世間では仏蘭西の文物に親しむものを忌む傾きが著しくなった。たしか『国民新聞』の論説記者が僕を指して非国民となしたのもその時分であった。・・・ 永井荷風 「正宗谷崎両氏の批評に答う」
・・・ 中津藩はすでにこの偶然の僥倖に由て維新の際に諸藩普通の禍を免かれ、爾後また重ねてこの僥倖を固くしたるものあり。けだしそのこれを固くしたるものとは市学校の設立、すなわちこれなり。明治四年廃藩のころ、中津の旧官員と東京の慶応義塾と商議の上・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
・・・これまた偶然の僥倖なりといわざるをえず。いかんとなれば、当初、余が著述は、かつて身に経験あるに非ず、ただ西洋の事をたやすく世人に知らせんものをと思う一心よりこれを出版して、存外によく売れたるにつき、これは面白しとて、また出版すれば、また売れ・・・ 福沢諭吉 「成学即身実業の説、学生諸氏に告ぐ」
・・・もとより農民の婦女子、貧家の女子中、稀に有為の俊才を生じ、偶然にも大に社会を益したることなきにあらざれども、こは千百人中の一にして、はなはだ稀有のことなれば、この稀有の僥倖を目的として他の千百人の後世を誤る、狂気の沙汰に非ずして何ぞや。・・・ 福沢諭吉 「文明教育論」
・・・その衰勢に及んではとても自家の地歩を維持するに足らず、廃滅の数すでに明なりといえども、なお万一の僥倖を期して屈することを為さず、実際に力尽きて然る後に斃るるはこれまた人情の然らしむるところにして、その趣を喩えていえば、父母の大病に回復の望な・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
・・・それだからこそ、映画女優を志願して、故郷のオクラホマからハリウッドへは行かずニューヨークへ出たミス・スチュアートが、メトロ映画会社に認められて契約を結んだ、というような小事実が、僥倖の一つとして日本の読者にまで写真入りで伝えられるのである。・・・ 宮本百合子 「政治と作家の現実」
出典:青空文庫