・・・吾人は素より忍野氏に酷ならんとするものにあらざるなり。然れども軽忽に発狂したる罪は鼓を鳴らして責めざるべからず。否、忍野氏の罪のみならんや。発狂禁止令を等閑に附せる歴代政府の失政をも天に替って責めざるべからず。「常子夫人の談によれば、夫・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・結末をつけねばならないのである。素よりかような結末には深きつつしみと心遣いとがなければならないのはいうまでもない。多年愛し合った男女が別れて後互いに弱点を暴露して公に争うが如きは醜き限りである。願わくば別離を経験したことによって、前にも書い・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・しかしそれらは素より馬琴のためにこれを語るさえ余り気の毒な位の、至って些細な、下らぬものでありまして、名誉心と道義心との非常に強かった馬琴は、晩年に至りまして、これらの下らぬ類の著作を自分が試みたといわれるのを遺憾に思って、自らその書をもと・・・ 幸田露伴 「馬琴の小説とその当時の実社会」
・・・小万は涙ながら写真と遺書とを持ったまま、同じ二階の吉里の室へ走ッて行ッて見ると、素より吉里のおろうはずがなく、お熊を始め書記の男と他に二人ばかり騒いでいた。小万は上の間に行ッて窓から覗いたが、太郎稲荷、入谷、金杉あたりの人家の燈火が・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・ その当時から見れば、素より薄らいで居るには違いないけれ共、フトその名を云い出された時や何かは、云い知らぬ淋しさに襲われて居た。 けれ共、私の悲しさをいやすべく、二親の歓びを助くべく、今まで見た事もない様な美くしい児を、何者かが与え・・・ 宮本百合子 「暁光」
出典:青空文庫