・・・妹は平一が日曜でも家に籠って読書しているのを見て、兄さんはどうしてそう出嫌いだろう、子供だってあるではなし、姉さんにも時々は外の空気を吸わせて上げるがいいなどと云った事もある。こんな事を思い出しては無意味に微笑している。 向うの子供づれ・・・ 寺田寅彦 「障子の落書」
・・・嫂はたぶん感づいていても知らん顔をしているけれど、嫂の兄さんがばかに律義な人でね、どこだどこだってしきりに聞くんだ」「そんな秘し隠しをしなくともいいじゃありませんか。別に悪いところにいるというのじゃないし、女を買うわけでもないんですもの・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・「――うちは百姓だけど、兄さんが大工さんだって。もうシゲちゃんもそろそろ、ねェ」 三吉はくらくなってきた足もとをみていた。彼女は紙巻工であった深水の嫁さんの同僚で、深水の結婚式のとき、てつだいにきていた彼女を、三吉は顔だけみたのであ・・・ 徳永直 「白い道」
・・・現在はどこに住んでいるかときくと、「兄さんや母さんと一緒に東中野にいます。母さんはむかし小石川の雁金屋さんとかいう本屋に奉公していたって云うはなしだワ。」と言った。 雁金屋は江戸時代から明治四十年頃まで小石川安藤坂上に在った名高い書・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・「兄さん。おい、兄さん。冗談じゃないぜ息が詰っちまうぜ」 彼は、暫くして少年を揺り起した。少年は鈍く眼を開いた。そして両手をウーンと張り上げた。隣の人の耳を小突きながら、隣の人は小突かれると、反対の通路の方へガックリと首を傾けた。・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・ 吉里の眼もまず平田に注いだが、すぐ西宮を見て懐愛しそうににッこり笑ッて、「兄さん」と、裲襠を引き摺ッたまま走り寄り、身を投げかけて男の肩を抱いた。「ははははは。門迷いをしちゃア困るぜ。何だ、さッきから二階の櫺子から覗いたり、店の格・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・店の方には男の声にて兄さんは寐たりやと問う。この家に若き男もあらざれば兄さんとはわれの事なるべし。小娘の声にて阿唯といらえしたる後は何の話もなくただ玉蜀黍をむく音のみはらはらと響きたり。 鼻たれの兄と呼ばるゝ夜寒かな ふと眼を開・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・朝から水泳ぎもできたし林の中で鷹にも負けないくらい高く叫んだりまた兄さんの草刈りについて行ったりした。それはほんとうにいいことです。けれどももう休みは終りました。これからは秋です。むかしから秋は一番勉強のできる時だといってあるのです。ですか・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・ どんな若いひとたちにしろ、ただ友達の兄さん弟というだけのつき合いを一々母たちの詮索風な、また婿選び的鑑識の対象にされることは、うるさくて堪え難かろう。どんな息子にしろ、格別の感情を抱いてもいない妹の友達たち一人一人をやがての嫁選びのよ・・・ 宮本百合子 「異性の友情」
・・・ 婦人は灸の方をちょっと見ると、「まア、兄さんは面白いことをなさるわね。」といっておいて、また急がしそうに、別れた愛人へ出す手紙を書き続けた。 女の子は灸の傍へ戻ると彼の頭を一つ叩いた。 灸は「ア痛ッ。」といった。 女の・・・ 横光利一 「赤い着物」
出典:青空文庫