・・・頭の中が金の事で充満しているから日本人などを冷かしている暇がないというような訳で、我々黄色人――黄色人とは甘くつけたものだ。全く黄色い。日本にいる時はあまり白い方ではないがまず一通りの人間色という色に近いと心得ていたが、この国ではついに人-・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・あたりの空気には、死屍のような臭気が充満して、気圧が刻々に嵩まって行った。此所に現象しているものは、確かに何かの凶兆である。確かに今、何事かの非常が起る! 起きるにちがいない! 町には何の変化もなかった。往来は相変らず雑鬧して、静かに音・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・窃盗博徒といえども、これを捕縛してもらさざるは、法律上において称すべき事なれども、その囚徒が獄内に充満するは、祝すべきに非ず。窃盗博徒、なおかつ然り、いわんや字を知る文人学者においてをや。国のためにもっとも悲しむべき事なり。この一段にいたり・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・即ち木石ならざる人生の難業ともいうべきものにして、既にこの業を脩めて顧みて凡俗世界を見れば、腐敗の空気充満して醜に堪えず。無知無徳の下等社会はともかくも、上流の富貴または学者と称する部分においても、言うに忍びざるもの多し。人間の大事、社会の・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・ 疾翔大力、微笑して、金色の円光を以て頭に被れるに、その光、遍く一座を照し、諸鳥歓喜充満せり。則ち説いて曰く、 汝等審に諸の悪業を作る。或は夜陰を以て、小禽の家に至る。時に小禽、既に終日日光に浴し、歌唄跳躍して疲労をなし、唯唯甘美の・・・ 宮沢賢治 「二十六夜」
・・・ 未来の絵姿はそのように透明生気充満したものであるとしても、現在私たちの日常は実に女らしさの魑魅魍魎にとりまかれていると思う。女にとって一番の困難は、いつとはなし女自身が、その女らしさという観念を何か自分の本態、あるいは本心に附随したも・・・ 宮本百合子 「新しい船出」
・・・あの身ぎれいな、行儀のいい女学生たちの重々しさは、知識の重々しさでも希望の重要さでもなくてつまりは、暢びやかでない若さの重み、将来というものにちっとも見とおしがなくて、漠然と充満している若い女の期待の重苦しさであったのである。 上級生に・・・ 宮本百合子 「女の学校」
・・・国内には廃兵が充満した。祷りの声が各戸の入口から聞えて来た。行人の喪章は到る処に見受けられた。しかし、ナポレオンは、まだ密かにロシアを遠征する機会を狙ってやめなかった。この蓋世不抜の一代の英気は、またナポレオンの腹の田虫をいつまでも癒す暇を・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・が万物に充満していると説くところは、やや汎神論的に見えるが、しかしそれをあくまでも天地の主宰者として取り扱うところに、佐渡守の狂信の対象であった阿弥陀仏や、キリシタンの説いていたデウスとの相似を思わせる。そういう点を考えると、この書が佐渡守・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
・・・に、「全的」に、「充満」の内に生きることを心がけていた人なら、「過去を悔いず未来を楽しまずただ常に現前を味わえ」、という法則を自己の生活の上に掲げても、別に危険はなかったでしょう。しかし青春の時期にあるものは、この全的に生きるということを最・・・ 和辻哲郎 「すべての芽を培え」
出典:青空文庫