・・・ 前刻から――辻町は、演芸、映画、そんなものの楽屋に縁がある――ほんの少々だけれども、これは筋にして稼げると、潜に悪心の萌したのが、この時、色も、慾も何にもない、しみじみと、いとしくて涙ぐんだ。「へい。お待遠でござりました。」 ・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・そして、いま、世界の事情を観考するのに、第二の世界戦争が太平洋を中心として、次第に色濃く、萌しつゝあるが如くです。 それが、いよ/\現実の問題となって、四海が波立つことは、五年の後か、或は十年の後か知らない。しかし、若し、世界が現状のま・・・ 小川未明 「男の子を見るたびに「戦争」について考えます」
・・・しかし悲しみの中にも来るべき喜びの萌しのあるのも勿論だ。 人間は苦悩に遭遇した時、「いつこの悩みから逃れられるのか?」と、恰もそれが永久に負わされた悩みでもあるかのように転々反側するけれど、ものには限度のあるもので、その後には必ず喜びが・・・ 小川未明 「波の如く去来す」
・・・九十二だというが血色といい肉づきといい、どこにも老衰の兆しの見えないような親戚の老人は、父の子供の時分からのお師匠さんでもあった。分家の長兄もいつか運転手の服装を改めて座につき、仕出し屋から運ばれた簡単な精進料理のお膳が二十人前ほど並んで、・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
・・・それで差支ないと云えばそれまでであるが、現に家業にはいくら精通してもまたいくら勉強してもそればかりじゃどこか不足な訴が内部から萌して来て何となく充分に人間的な心持が味えないのだからやむをえない。したがってこの孤立支離の弊を何とかして矯めなけ・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・それで眼尻と口元には笑が萌していた。同時に恰好の好い頸を肩まですくめていた。文鳥が自分を見た時、自分はふとこの女の事を思い出した。この女は今嫁に行った。自分が紫の帯上でいたずらをしたのは縁談のきまった二三日後である。 餌壺にはまだ粟が八・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・この浪の音は何里の沖に萌してこの磯の遠きに崩るるか、思えば古き響きである。時の幾代を揺がして知られぬ未来に響く。日を捨てず夜を捨てず、二六時中繰り返す真理は永劫無極の響きを伝えて剣打つ音を嘲り、弓引く音を笑う。百と云い千と云う人の叫びの、は・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・長篇流行の風が萌した。日本の文学も私小説の時代を経て社会小説の黎明に入ったともいわれたのであったが、そこには極めて微妙な時代的好尚の影がさしこんだ。横光利一の純粋小説論が、文学の本質として現実追随の通俗性に堕さざるを得ない理由は先に簡単に触・・・ 宮本百合子 「昭和の十四年間」
・・・ 三右衛門は灼けるような痛を頭と手とに覚えて、眩暈が萌して来た。それでも自分で自分を励まして、金部屋へ引き返して、何より先に金箱の錠前を改めた。なんの異状もない。「先ず好かった」と思った時、眩暈が強く起こったので、左の手で夜具葛籠を引き・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・後に思えば気の毒であるが、この時は私の心中に、若し狂人ではあるまいかと云う疑さえ萌していた。 それから私は取敢ずこんな返事をした。君は私を買い被っている。私はそんなにえらくはない。しかし私の事は姑く措くとして、君は果して東京で師事すべき・・・ 森鴎外 「二人の友」
出典:青空文庫