・・・ 遠藤はこう言いながら、上衣の隠しに手を入れると、一挺のピストルを引き出しました。「この近所にいらっしゃりはしないか? 香港の警察署の調べた所じゃ、御嬢さんを攫ったのは、印度人らしいということだったが、――隠し立てをすると為にならん・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・彼は座敷に荷物を運び入れる手伝いをした後、父の前に座を取って、そのしぐさに対して不安を感じた。今夜は就寝がきわめて晩くなるなと思った。 二人が風呂から上がると内儀さんが食膳を運んで、監督は相伴なしで話し相手をするために部屋の入口にかしこ・・・ 有島武郎 「親子」
・・・空想文学に対する倦厭の情と、実生活から獲た多少の経験とは、やがて私しにもその新らしい運動の精神を享入れることを得しめた。遠くから眺めていると、自分の脱けだしてきた家に火事が起って、みるみる燃え上がるのを、暗い山の上から瞰下すような心持があっ・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・――塩を入れると飛上るんですってねと、娘の目が、穴の上へ、ふたになって、熟と覗く。河童だい、あかんべい、とやった処が、でしゅ……覗いた瞳の美しさ、その麗さは、月宮殿の池ほどござり、睫が柳の小波に、岸を縫って、靡くでしゅが。――ただ一雫の露と・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・丹精な人は掃除にまで力を入れるのだ。 朝飯が済む。満蔵は米搗き、兄は俵あみ、省作とおはまは繩ない、姉は母を相手にぼろ繕いらしい。稲刈りから見れば休んでるようなものだ。向こうの政公も藁をかついでやって来た。「どうか一人仲間入りさしてく・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・かつ天下国家の大問題で充満する頭の中には我々閑人のノンキな空談を容れる余地はなかったろうが、応酬に巧みな政客の常で誰にでも共鳴するかのように調子を合わせるから、イイ気になって知己を得たツモリで愚談を聴いてもらおうとすると、忽ち巧みに受流され・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・ 子供は、どうしてつばめが、自分の腹の中に入れるかわかりませんでした。「ほんとうに、おまえは、私の魂になっておくれ。」と、子供は、つばめに向かって頼みました。 つばめは、不意に自分の舌をかみ切って、足もとに落ちて死んでしまいまし・・・ 小川未明 「教師と子供」
・・・「なにもね内の耳へ入れるようなことはさせないから、そりゃ大丈夫だけど……金さん、もう何時だろう?」と思い出したように聞く。 金之助は床の間に置いてあった銀側時計を取って見て、「三時半少し過ぎだ。まあいいじゃねえか」「いえ、そうし・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・だが、この寒空にこの土地で梨の実を手に入れる事は出来ません。併し、わたくしは今梨の実の沢山になっているところを知っています。それは」と空を指さしまして、「あの天国のお庭でございます。ああ、これから天国のお庭の梨の実を盗んで参りますか・・・ 小山内薫 「梨の実」
・・・飴は一本五厘で、五十銭で仕入れると、百本くれる。普通は一本を二つに折って、それを一銭に売るのだから、売りつくすと二円になる。が、私は二つに折らずに、仕入れたままの長いのを一銭に売りました。そしてその日は全部売りつくすまで廻りましたが、自分で・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
出典:青空文庫