・・・ こう聞いて、私は全身にヒヤリとしたものを感じて、口を緘じた。二人でばかにする……この不用意な言葉が、私の腹のどん底へ、重い弾丸を投じたものだ。なるほどそんな風に考えたのか、火鉢の傍を離れて自分はせっせと復習をしている、母や妹たちのこと・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・草の上に腰から上が出て、その立てた膝に画板が寄掛けてある、そして川柳の影が後から彼の全身を被い、ただその白い顔の辺から肩先へかけて楊を洩れた薄い光が穏かに落ちている。これは面白ろい、彼奴を写してやろうと、自分はそのまま其処に腰を下して、志村・・・ 国木田独歩 「画の悲み」
・・・ 氷のような悪寒が、電流のように速かに、兵卒達の全身を走った。彼等は、ヒヤッとした。栗島は、いつまでも太股がブル/\慄えるのを止めることが出来なかった。軍刀は打ちおろされたのであった。 必死の、鋭い、号泣と叫喚が同時に、老人の全身か・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・竿尻より上の一尺ばかりのところを持つと、竿は水の上に全身を凛とあらわして、あたかも名刀の鞘を払ったように美しい姿を見せた。 持たない中こそ何でもなかったが、手にして見るとその竿に対して油然として愛念が起った。とにかく竿を放そうとして二、・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・ おげんは中年の看護婦と言葉をかわして見て、電気にでも打たれるような身ぶるいが全身を通り過ぎるのを覚えた。 翌朝になると、おげんは多勢の女の患者ばかりごちゃごちゃと集まって臥たり起きたりする病院の大広間に来ていた。夢であってくれれば・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・そのごったがえしの群々の中には、そこにもここにも、全身にやけどをした人や、重病者が、横だおしになってうなっている。保護者にはぐれた子どもたちが、おんおんないてうろうろしている。恐怖と悲嘆とに気が狂った女が、きいきい声をあげてかけ歩く。びっく・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・気に友人達を汽車に乗せたものの、さてこんなに大勢で佐吉さんの小さい酒店に御厄介になっていいものかどうか、汽車の進むにつれて私の不安は増大し、そのうちに日も暮れて、三島駅近くなる頃には、あまりの心細さに全身こまかにふるえ始め、幾度となく涙ぐみ・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・ 病気はほんとうに治ったのでないから、息が非常に切れる。全身には悪熱悪寒が絶えず往来する。頭脳が火のように熱して、顳がはげしい脈を打つ。なぜ、病院を出た? 軍医があとがたいせつだと言ってあれほど留めたのに、なぜ病院を出た? こう思ったが・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・親鳥だと、単にちょっと逆立ちをしてしっぽを天に朝しさえすればくちばしが自然に池底に届くのであるが、ひな鳥はこうして全身を没してもぐらないと目的を達しないから、その自然の要求からこうした芸当をするのであろうが、それにしても、水中にもぐっている・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・加茂の水の透き徹るなかに全身を浸けたときは歯の根が合わぬくらいであった。湯に入って顫えたものは古往今来たくさんあるまいと思う。湯から出たら「公まず眠れ」と云う。若い坊さんが厚い蒲団を十二畳の部屋に担ぎ込む。「郡内か」と聞いたら「太織だ」と答・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
出典:青空文庫