・・・ 根津の遊里は斯くの如く一時繁栄を極めたが、明治二十一年六月三十日を限りとして取払われ、深川洲崎の埋立地に移転を命ぜられた。娼家の跡は商舗または下宿屋の如きものとなったが、独八幡楼の跡のみ、其の庭園の向ヶ岡の阻崖に面して頗幽邃の趣をなし・・・ 永井荷風 「上野」
・・・唖々子は今年六月のはじめ突然病に伏して、七月十一日の朝四十六歳を以て世を謝した。 二十年前わたしの唖々子における関係は、あたかも抽斎の子のその友某におけると同じであった。 六月下旬の或日、めずらしく晴れた梅雨の空には、風も凉しく吹き・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
・・・両人がここに引き越したのは千八百三十四年の六月十日で、引越の途中に下女の持っていたカナリヤが籠の中で囀ったという事まで知れている。夫人がこの家を撰んだのは大に気に入ったものかほかに相当なのがなくてやむをえなんだのか、いずれにもせよこの煙突の・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・六月十二日 夏目漱石 「虚子君へ」
・・・〔『ホトトギス』第四巻第六号 明治34・3・20 一〕○覆盆子を食いし事 明治廿四年六月の事であった。学校の試験も切迫して来るのでいよいよ脳が悪くなった。これでは試験も受けられぬというので試験の済まぬ内に余は帰国する事に定めた。菅笠・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・一千九百二十六年六月十四日 今日はやっと正午から七時まで番水があたったので樋番をした。何せ去年からの巨きなひびもあるとみえて水はなかなかたまらなかった。くろへ腰掛けてこぼこぼはっていく温い水へ足を入れていてついとろっとしたら・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・〔一九四八年六月〕 宮本百合子 「巖の花」
・・・当代に追腹を願っても許されぬので、六月十九日に小脇差を腹に突き立ててから願書を出して、とうとう許された。加藤安太夫が介錯した。本庄は丹後国の者で、流浪していたのを三斎公の部屋附き本庄久右衛門が召使っていた。仲津で狼藉者を取り押さえて、五人扶・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・更けても暗くはならない、此頃の六月の夜の薄明りの、褪めたような色の光線にも、また翌日の朝焼けまで微かに光り止まない、空想的な、不思議に優しい調子の、薄色の夕日の景色にも、また暴風の来そうな、薄黒い空の下で、銀鼠色に光っている海にも、また海岸・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・が、事実問題として、ああいう美しさが六月の太陽に照らされたほの暑い農村の美しさのすべてであるとは言えないであろう。小林氏にしてもあれ以外に多くの色や光や運動の美しさを認めたであろう。しかし氏はその内から一の情趣をつかんだ。そうしてそれを描き・・・ 和辻哲郎 「院展日本画所感」
出典:青空文庫